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水の道標

●主観と客観〜文学を読む・補足

 主観的とか客観的という言葉の使われ方はだいたいにおいてルーズである(もともと言葉はルーズに使われるものだが、それにしも)。哲学用語として、独特な、つまり業界だけに通用する恣意的な意味でも使われ、そして必然的に業界内から意味が漏れでたりするものだから、話が紛糾する。ここでは、よく文芸批評の場などでも使われるこの言葉について一応の見解を示したい。ただし文芸批評で主観的批評と言えば印象批評のことを指し、やや意味が異なるので、ここではあくまでも全般的な論議にしたい。
 まず、主客の二元論は、絶対的な主観があり、絶対的な客観があるという大前提に拠るが、絶対的な主観も、絶対的な客観も神仏だけが持ちうるものであることを考えれば、主客二元論に依拠すること自体が現実的ではない。現実的には、主観と客観のあいだに線引きが出来ようはずもない。というか、主とも客ともつかないものとして私たちは存在するのだ。例えば外界から認識される対象としてしか存在しないというのも唯我独尊というのも、同じようにバカらしいのと一緒である。
 私たちは、相互に関係を持ちつつ生きている。人間であるならば、関係を持ちつつ生きざるを得ないのであり、独立してあることはできない。互いのことを知るために、常に推測し、脳を使って判断し続ける。文学を読むという行為は、そのような推測行動と共にあり、そしてその推測の形式は、ここが主客を論じるときに重要なことだが、決して自由などではない。
 まずは自由ではない、という認識を持ち、さらに、主体として読むしかないことを意識してかかるとき、主客二元論などは埒外に遠のく。つまり、それが客観的だとか主観的だとかいった判断が無用のものになる。主観的客観的という言葉では、その人間の言説を批評したことにならないということである。


 あらゆる主体の行動を「主観的でしかあり得ない」と抛棄することは、無責任でしかなく、そのような考え方は、「私たちは自由だ」という悪しき錯覚を与え、謬見を植え付ける。誰もがある限定の中で生き、死んでいく。自由ではないことは人間の、というか存在の本質であり、だからこそ人間は自由であるという訳の分らない状態に憧れる。自由ではないからと言って、自由を求める能動性を棄てるには及ばないし、その不自由さに絶望する必要もない。
 やはり主客を超えた、関係性の中にある自分の認識が、批評という行為に先立っては最も重要ではないかと思う。この認識に立つと、主観でしかない、という否定的な言説は、主観である、というニュートラルなものになる。うーん、便宜上この言葉を使わざるを得ないが、何度も述べるように、主観というのとは違う。私という主体から発していると言うべきか。そしてそれが主観的か客観的かということは、その言説を判断するうえで大した意味を持たないということが言いたいのだ。
 主体は、アイソレイテッドに存在しているのではない。そのような関係性を否定したいのならば(引き受けられないのならば)、言葉を使うのをやめるほかないだろう。私自身の見解としては、やめるべきである、と思う。


 もっと平凡な地平からものごとを眺めてみよう。私たちの世界認識は、言語が通じるものである以上、どこかで共通し、まったくかみ合わないなどということはあり得ない。
 また私たち人間は亜種を持たず、一種類しかいない。いわゆる人種の違いは個性の差に還元されるということになっている。肉体的条件はまったく変わらないということになる。中には特殊な身体的条件の人、例えば生まれつき盲目の人などもいるだろう。だがそれにしても、生きている地平で、私がここにいて、何か物を食べ、排泄をしたりセックスをしたり、また睡眠をとったりすることに変わりはない。いろいろな条件は違っても、誰もが自分の身体性から逃れられないということは同じだ。
 そのような共通理解がある中で、推測可能だということを前提条件として、表現はなされている。
 私たち日本人は、誰しも、似たような社会の中で、似たような国語教育を受けている。日本には文化に関わる悪の総元締めとして文部省というものがあり、そこが文学をどのように味わうのかこうして指導しなさい、などと言いながら、指導を迫る。その指導にどれほど従い従わぬかは個々の教師の裁量に任されているかが、限界はそこにもある。そして、国語という名のもとに、文学を読まされ、そしてさらには大学受験によってその読み方をより一層歪めさせられ、大学ではアカデミズムがまたしても我々の読みを規制する。また、大学で文学を学ばない人にも、直接間接にその影響は及ぶ。まさにこのようにして、私たちが主体となって文学を読んでいるにもかかわらず、私たちは完全に主観的には読んではいない。
 「愚かな、そうしたものも含めて主観というのである」とも言われよう。ならば、その主観の中には、かなりの程度の共通理解があるということにもなるだろう。そのように、日本の文学の読書家なりの共通項があるということは、等閑視されてよいことではないと私は感じる。その実質をさぐることもまた、批評の務めなのである。


 自分で書きながらも、たくさんつっこまれそうな文章だと思うが、仕方がない。
 私の言いたいことは、主観的な意見とか客観的な意見というような分類に価値を見出せないということに過ぎない。意見に優劣があるとしたら、もっと別の尺度ではかるべきである。また、所詮主観でしかないのだから、その意見が独立してすぐれたもの、文芸批評なら文芸として優れていることが大事だという考え方にも承服できない、ということを言いたいのである。
 とはいえ、どんな場合にも「客観的分析」は成しうると思う。しかし「主観的分析」は存立しえないと思う。形容矛盾である。分析は理性的・論理的にするものである。外部から見て納得できないようなでたらめなものは分析とは言わない。偏った分析を施すのは、主観的なのではなく、偏っているのである。どのような偏りになっているのか明らかになればそれでよい。
 オーディエンスを納得させられるほどの論は展開できなかった。かえって主観と客観が混乱してしまったようだが、こだわっていると先へ進めないので、この項はこれで終りにする。(2004.04.24) 次につづく

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