Isidora’s Page
水の道標

文学を読む②読書とイメージ         (2004.04)

 小説を読んだときに映像が浮かぶかどうかということを、数人の知人に確認してみようと思ったのは、二人の友人に立て続けに映像は基本的に浮かばないと言われ、「そんなバカな、映像が浮かばないという方が少数派にちがいない」という臆断を抱いたためである。映像化と言ってもさまさまなレヴェルがあって、フルカラーのアニメが一気に広がり、派手な効果音が鳴る、というものから、すりガラスの向こうにぼんやりとした世界が見えて何の音も匂いもしないというものまで、いろいろだろう、とは思ったものの、読んでいる時に文字を理解しているだけだというのは、何か釈然としない。理知的に頭で理解するだけというのは、むしろ難しいことだと思うのだ。少なくとも、映像に限らずとも、何らかのイメージが読書の背後には揺曳しているのではないか。
ともあれ、これがアンケート結果である。[アンケート結果] 

 今はとりあえず、私自身の回答をここで挙げておきたい。

 まず、小説を読む場合、普通に何も考えずに読んでいるときは、ちょうど夢を見ているような具合である。夢を見ている時はそれなりに鮮明でリアルな映像を見ているつもりだが、目覚めて思い出そうとすると、顔がはっきりと見えなかったり、細部が曖昧だったりする。夢の中にいるときは、曖昧だと感じることなく、自然に見ているのだと思うが、実際には、夢を意識的に見ることはできないので、本当のところはわからない。ただし、夢でも普通の出来事記憶のように記憶に残っていくようなものは、現実の記憶と同程度の鮮明な映像を保っている。また、夢では、現実とまったく見分けがつかないようなものを見ることがあり、目覚めたあと、例えば半日ぐらい経ってから、卒然と夢だった……と思ったりすることが、私にはある。また、目覚めた直後には覚えていない夢を、一時間後に一気に思い出す、というようなこともある。これらすべてが小説を読むこと、あるいは読んだ後に起きることに似ている。
 何も考えずに読んでいるということは、自分がどういう状態だかモニターできていないということである。たいていの読者は、読んでいる自分をモニターしたりはしない。アンケートの中でも、そんなことは考えたことがなかった、という人がいた。いったいどうなってるのか、という興味がなければそんなことはしないだろう。従って、本来なら、読んでいるときはどうなっているのか、ほとんどわからない。あえてモニターしながら読もうと思うと、普通に読んでいる状態にはならない。何か不自然になる。とはいえ、その時も半分くらいは画像になっている。ただしスムーズに動いている感じではない。
 もっと読むことに真剣に取り組んでいる時はどうなのか。それを見つけるために、普通に読み続け、いきなり、モニターしよう、と考える。これをやるためには、私の場合は訓練が必要である。すると、自分が今どうなっていたかわかるのだ。私は非常に映像的に読んでいて、触覚や聴覚もしっかりあるが、嗅覚は弱い、ということがわかるのである。さらに、たった今読んでいたものを思い返せば、それはとても鮮明な映像で現れる。もちろんフルカラーで、生活音がついている。静止映像ではないのだが、完全な連続性もない。映画でもワンカットで撮るものは非常に珍しいが、私の脳内映像もたくさんのカットで構成されていて、ぶちぶちきれたたくさんのフィルム、あるいはカットの切り替えのあいだに空白のある映画のごときである。声もするが、現実の声ではない。声の雰囲気だけだ。映像になりやすい作品とそうでない作品が確かにあるが、それは個別に考えるほかない。ただ漠然と推測するに、映像になりやすいと感じるのは、映画としてさまになっている描写が続くものと思われる。
 どんな作品でも、まったくすんなりとその世界に入っていける。稚拙な小説だろうがSFだろうがファンタジイだろうが関係ない。唯一関係があるのは、言葉遊びの小説で、例えばジョイスの『フィネガンズ・ウェイク』は、どうしても一語一語読んでいくことになる。一語ごとにイメージは広がるのだが、それが映像になって流れるようにまとまったりはしない。ただし、小説としてはこれは非常に特殊だろう。原文では決して読めないし。
 また、イメージが想起されるのは小説には限らない。ノンフィクションの類、新聞記事などは、小説に準ずる。歴史書、文化人類学などももちろんそう。描写的なものいっさいが映像化される。数学関係の書物はやや異なるが、科学一般の概説書だと、出来る範囲で視覚化して理解しようとするし(自然にそうしてしまう)、純然たる哲学書など、描写的なものが書いてなくとも、イメージが読むことに付随する。わかりにくいかもしれないので、例を挙げて説明してみる。

★ゴドーを待ちながら★
 戯曲である。読むと、舞台が見える。役柄を演じている姿が、舞台の高さと同じ高さから見える。位置は正面からだったり、上手や下手からだったり、変わる。クローズアップもある。何のことはない、テレビの劇場中継である。私は『ゴドー』の舞台を見たことがない。従って、私は観客であると同時に、演出家でもある。この時点で既に『ゴドー』という作品に対する解釈が入っているということがわかるだろう。ただしそれは論理的なものでも何でもなく、感性的なものだ。私ならこう演じる、というところ。ここでとても重要なのは、『ゴドー』は一種の不条理演劇だが、この作品の後に書かれた不条理演劇や静的な演劇に関しては、私はいくつか舞台を見ていて、それから明らかに影響を受けている、ということである。まったく何もないとろから、イメージを紡いでいるのではない。前衛的な演劇独特の舞台作りが、見るという体験によって私の中で規範化され、それが『ゴドー』を読むという行為に影響を及ぼしているのである。

★神林長平作品★
 神林さんは、言語で言語を紡いでいくタイプの作家で、特に前知識がなくとも、読んでいるとそうだろうと推測されるほど、そのことははっきりとわかる。人間の外見描写などは極端に少なく、そんなことはほとんど気にしていないのだろう。先日、自分の作品を読み返すとき、映像になるかどうか聞いてみたところ、ならない、と言われた。私は、全部がそうということはないだろうと疑っているが。さて、そのような作家の作品から、私は多大なヴィジュアル情報を受け取り、ほとんどを映像化している。かなりはっきりとしたアニメーションになる。内容がファンタスティックであるためで、現実性の強い作品では現実に近い映像になる場合もたまにある。例えば『プリズム』の冒頭で、ゴミ缶の上の猫が堕天使に変形するが、こういうものは現実のものとしては簡単には想像できないからなのだと思う。最近はCG画像が発達してきたので、段々変わるかもしれないが、少なくとも、現時点では、アニメになってしまう。ただ、アニメ絵っぽいものかというとそうでもない。動くリアル系のイラストという感じか。また、『プリズム』の中には〈青の将魔ヴォズリーフ〉のような言葉が出て来るが、こうした言葉からも勝手にイメージを作りだしている。神林さんの作品は、思い出そうとすると、生活音や台詞が入ったアニメ以外のものにはならない。単にそのまま覚えている文章もあるが、それは台詞やナレーションになってしまうのだ。
 視点はアニメ作品を見ているよう。私が製作者のアニメだから、いろんなカットワークを使っている。アニメを作れ、と言われたら、即、作れます。でもこれには脚色がほとんど入っていなくて、原作通りなので、出来上がった作品は冗長になってしまうだろう。読んでいる時には、会話だけが続くところなどは早く流れるし、話の内容をさらに視覚化しても奇妙にはならないが、そのままではアニメの完成作品としては質が低くなってしまう。

 私の脳内映像は、まったくの想像から生まれているということはなく、すべてどこかで見たものに由来している。いかなる想像力も現実に還元できるのではないかと私は思っているのだが、もちろんそれを立証できているわけではない。それはさておき、現実から来ているものだから、人間の顔などは、モンタージュ写真だと不自然になるように、自分ではなかなか作れない。夢で知人の夢を見ているのならいいが、そういうことは少ないから、その顔は漠然とした顔であって、現実化は難しいのではないかと思う。
 時として、登場人物の視点のままに世界が見えることがある。作品全体がそうなるということはほとんどなくて、一部だけということが圧倒的に多いのだが、そのような作品を、私は好きだと感じることが多い。そうでなくてもすごく気になる作品ということになる。ただしすべてがそうとは限らない。これは強烈な夢を見たときに非常によく似た感覚である。小説が三人称か一人称かということや主人公かどうかということには関わりがない。また、私にとっては特殊なことで、滅多に起きることではない。

 あらゆる言葉は、抽象的なものも含めて何らかのイメージを背後に持つものだと思う。言葉の獲得には、常に背景が伴う(現実あるいは文書によって)。それをいちいち頭に思い浮かべるかどうかはわからないが、意識されなくても、厳然とそこにあるものなのではないかと推測している。
 私自身は、あらゆる言葉にそれを感じる。文章を読むときにいちいちそれを感じるかと言えばそれはないが、個別にどうだと聞かれれば、なにかしらの感触を、言語としての音とは別に感じるのである。例えば「言葉」「言語」「言辞」と似たような意味ではあるが、それぞれが持つ意味や音の感触とはまた別に、抱えているイメージがある。言語化は出来ないのだが……。それは表意文字だからということもあるだろう。「言葉」と「言語」が同じ意味に使いうるとは、ほとんど信じられないぐらいに、私には違うイメージがある。字面から受ける印象ということまで言い出せば、「言葉」と「ことば」も明らかに違う。「言葉」という漢字はイメージが悪いので絶対に使わない、「ことば」を使うと述べていた著作家がいたから、珍奇な感覚ではないはずだ。その普遍性は心もとないが。
 さすがに何も感じないのは、助詞と助動詞の一部。「話そう」の「う」だけを取りだしても、さすがにイメージはわかない。「話そう」にはもちろんある。「話しましょう」や「話した」とは明らかに違う。意味ではなくイメージである。
「だが」という言葉などに何のイメージがあるのか、と言われそうだ。実は「だが」というのは非常にわかりやすい特殊な例なので挙げてみたのだ。《クレヨン王国》にイタチのダガーというキャラクターがいて、軍事クーデターをたくらんだりする悪者なのだが、彼の口癖は「だがあ」という反論のための接続詞である。この物語を読んで以後、私の中の「だが」にはいつもダガーの否定的な気分が揺曳しているのである。ほかにも、例えば鏡花で始めて知った単語などは、その作品イメージと切り離せなかったり。アンケートの中の「優美」は、西洋の貴婦人のドレスの裳裾、シルクの手触りと衣擦れの音だ。背景はパーティなので、パーティの背景音もあり。相変らず匂いはない。
 描写的でない文章を読んでいるときも、単語のイメージが文章の流れや本来の意味とはまったく関係なく単独で浮かんで消えることはある。例えば今、これを書きながら水の流れとか泡が現れてははじける映像とかが頭に浮かぶわけである……。バルトの理論を引用している箇所を読んでいるときに、フランス人のおじさん(バルトの顔を知らない)が紙の上で踊っている(パントマイムをしている)姿が浮かんでしまったりする。それで別に意味を取っていないわけではないので、意味とは別に起きる作用でもあるようなのだ。例えば対談などを読んでいると、対談風景は個別の意味とは別にずっと続いていくとか。
 小説を読むときに映像となっているということも、だから、意味を取る行為とは別にそれをしているのではないだろうか。だが、取られた意味は理解されるだけで記憶には痕跡を留めず、想起された映像だけが残る。私は言語記憶が苦手で、映像記憶の方が得意だから。そんなふうに思う。

 小説を思い出すときは、なにしろ言語的に整理されていないので、どんなに何度読んだ本でも、まず瞬間的にはいろいろな映像がわーっと浮かんできて(それに台詞やナレーションがついているのは先にも述べた通りだが)、よく覚えているものについては、ひと呼吸置くと、浮かんだ絵とは関係なく、本当におおまかな筋が話せる。例えば「数学者の青年がさまよえるユダヤ人に会って、奇妙な体験をする話」とか。それを詳しく話そうと思うと、またいろいろな絵(言葉つき)を思い出すことになり、そのぐちゃばらに浮かんだ絵を整理しながら、こんな話だったと語って行くことになる。
 で、読んで欲しいと思って話すのなら、相手にアピールするように筋を話せば充分だと思う。あとは人にあわせて、あなたならこういうところが気に入るだろう、と言う。さらに薦める人の性格や立場によっては、これぐらいは読んでいないと恥ずかしいとかこの良さがわからないようでは読書力が弱いとか、私は評価するとかいうような脅しをかける。要するにあの手この手を使う。自分は好きだ、というのは、説得言語としては弱いので、こんなふうにすごい、ということを説明しようとするだろう。
 本当に好きな小説については、ちっとも語りたくないし、読んでほしいとも思わない。あまり現実的ではないが、私だけのもの、というか。たとえ誰がどんなにすばらしくその作品を評論しようとも、そういった現実は敢えて無視して、この作品をいちばんわかっているのも愛しているのも私、ほかの人にはわからないわ、というような、ほとんどお話にならないスタンスになってしまう。だからといって読まれない方が嬉しいわけではないのだが……だからホームページを作っているわけで、そのあたりはきわめてアンビヴァレンツなものがある。
 私の読むという行為はこんなもの。いろいろな人がいる。ネットに読書日記を書いている人のデータ全部が集まったりしたらおもしろいだろうな。読者反応論にまた違った道が開けるかもしれない。
 というわけで、次は読者と作品、批評の関係について述べよう。(2004.04.24)
次につづく

★読書によって浮かぶイメージについての補筆●映画になる小説・マンガになる小説

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