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水の道標
[アンケート結果]
●小説を読んでいるときにどのようなことが起きているのか、あるいはどう読み取っているのか、また小説を思い出して人に説明しようとするとどうなるのか、ということを聞いてみた。
●個別に外国語の本を読んだときはどうか、また研究目的で読む場合はどうなのか、といったことも聞いたが、それは省略した。
●回答は適宜編集して掲載している。

◇小説を読んでいる時に、映像として浮かんできますか。ぼんやりなんとなく浮かぶ、映画のよう、あるいは挿し絵がきれぎれに浮かぶなど、具体的にお答えください。また、あるシーンだけ鮮明に浮かぶ、小説によって違うが浮かびやすいものがある、というとき、例えばどのような作品は浮かびやすいか教えてください。
◇また、映像が浮かぶだけでなく、その他の五官のイメージも一緒に浮かぶでしょうか。
◇主人公などにとても感情移入できた時は、その視点で世界が感じられるという人もいますが、そういうことはどうでしょうか。

☆多くの場合、意識的に五感的なものを感じ取りながら読もうとするが、そんな操作をしなくとも自然に映像として浮かんでくることもある。あまり鮮明な映像にはならず、ぼんやりとした何かが見える感じ。むしろ映像単独よりは、触覚、味覚、嗅覚といった他の体感的要素と抱き合わせになって、ぼんやりした映像が浮んでくることが多いように思う。どのような小説が浮び易いかは回答不能。
☆映像的なものはほとんど浮かばない。触覚や嗅覚のような体感的なものの方がむしろ浮かぶ。ものすごく感情移入すると、そのキャラクターの視点で映像が見えることもあるが、その場合にも触覚的なものが伴う。
☆映像的なものはほとんど浮かばないが、時々否応なく映像を喚起するものがある。また、思い出す時には、映像的なものも浮かぶ。ただしシーンそのものとは関係のないイメージ映像のこともある。
☆もちろん映像として浮かぶ。映画のようにはっきりとはせず、どちらかというとぼんやりしています。ただし、このぼんやりには、連続性があり、きちんとつながっているケースが多いと思われる。また、楽しく小説を読めたという感覚を持ったものほど、全体的に鮮明にシーンが浮かんできていると思う。そういう時には、第三者的な視点からシーンを見ているのではなく、主人公の視点で見ていると思う。視覚的に浮かばないときは、どっぷりとその小説の世界へのめり込んでいないようだ。筋の良し悪しなどは、視覚化以後の評価だと思うが、結局両者が面白くないと、印象に残らないとも言えそうだ。
 また、「あるシーンだけ鮮明に浮かぶ」というケースは、筋の面白さと関係なく、つまらない小説でもシーンだけが印象深く残る場合がある。どんな小説とは言えないが……。
あまりにも馬鹿らしいので残った可能性もあるし(笑)。
 また、視覚が一番で、次にあるとしたら、味覚くらい。これは、映像から反射的に伝達される感覚のように思われる。嗅覚や聴覚などは、ほとんど感じない。聴覚については、逆に非常に邪魔になる場合があります。たとえば、「部屋ではバッハのが流れている」と書かれあっても、決してバッハなど思い浮かばない。バッハのイメージが(荘厳で重々しいなど)視覚として変換されて出て来る。本を読むときに、自分にとってはリズムというものが大切で、うまくリズムに乗れない読み物は面白く感じられないことが多い。強制的にリズムを作られるのはいやだ。だから、ほとんど聴覚的なものは無視していると思う。

☆微妙。読むんでいる行為を、メタ・レヴェルで意識することがない。現に設問を意識して読んでみても、どうなっているのかよくわからない……。子供のころには、登場人物の視点になりきって読むことが出来たかもしれないが、今はもう無理。
☆小説どおりに映像が浮かぶこともあるが、場面とは全然関係のない映像が浮かぶことが多々ある。なぜかはわからない。小説自体は結構おもしろく読んでいるのだが……。
 映像は、ぼんやりなんとなく浮かぶ感じで、小説によって違うということはない。時にきわめて綺麗な映像がぽんっと出ることもあるが、ライトノベルだったりすることもあるので、どうなっているのかは自分では分析できない。その他の五感はあまり感じないし、キャラクターの視点になることもそんなにはない。

☆小説を冷静に読んでいるときは言葉遣いやそのジャンルの歴史との関係などに意識が行くが、夢中になっているときは夢中なのでその小説と一体化しており、そのとき何をイメージしたかなどは残念ながら思い出すことができない。読後、思い返したり、実際に読み返したりすると頭の中にイメージが展開されて心地よかったりすることもある。
 文章そのものを記憶するという能力が皆無なので、読んだ小説を思い出すときはやはり映像になる。残念なのは本のカバーイラストや挿絵、映像化された作品等に影響されてしまうことで、星新一や横溝正史などはもはや固有のイメージを持つことが困難。五官にはほとんど影響を感じないが、憂鬱な、とかつらい、とか情感は時にくっついて思い出される。それは物語の要求するものに忠実なときもありますし、それを読んだときの自分の状態を思い出してそれに引っ張られるということもある・amp;amp;amp;amp;lt;/font>B
☆スナップ写真のように浮かんでくる。それも続けて何枚も。それは動かない。読んでいる時はいつも何かしらの画像がちらついている。音楽も映像とセットになっている。読み始めて「まったく映像が浮かばない」小説は苦手。だいたいは何かが浮かんでくるけれども、まったくダメなのが歴史小説。貧困な想像力が引っぱってくるのは「NHKの大河ドラマ」とか「金曜時代劇」のようなもの。なんだか、生え際が不自然なカ ツラが浮かんできてしまっていただけない。
 五官のイメージは浮かぶというより体感できるくらい強烈。小説を読むって体を使う。ものすごく疲れるもの。少し外れてしまうけれど「飢え」が強烈に描いてあると、おなかが空いてくるし胃が痛くなる。

☆映像で、映画のように浮かぶ。作品によって差はあると思うが、説明不能。音は描写されている通りの音が聞こえるような感じ。あくまで映像が主で、他の感覚はそれに付随する感じ。触覚や味覚はほとんどないと思う。嗅覚は、小説に描かれている臭いではなくて、そこから連想して臭いを感じるようなことは稀にある。しかも現実の体験では嗅いだことがない奇妙な臭いを感じることがある。ただし、主にグロテスクな場面やエロティックな場面に限られる。たぶん、他の人はそんなことはないだろうと思うが……。
 また、主観の記述の場合は、映像も主観になると思う。
☆言葉から情景をそれぞれ思い浮かべる。というか、小説を読む醍醐味というのはそうして想像世界をふくらませることなのでは?
☆もともと想像力に乏しいせいか、通常小説を読むときは、ぼんやりとした感じで、断片的にしかイメージがわかない。印象の強い場面になると、画面が浮かんでくる。想像力は、映像的なものが優先されるようだ。意図的にイメージするとなると、映画のようにカメラワーク的な画面になってしまう。映像世代のすり込みゆえだろうか。それも含め、通常は三人称的な視点で、感情移入すると一人称的になるというのは、感覚としてわからなくはないのですが、自分には無い。最近はそこまで感情移入することもないし……小学生の頃の、純真だった自分に聞いてみたい。
☆小説を読んでいて、視覚的に場面を思い浮かべることはほとんどない。現代小説で、よく知った街を舞台にしている時はさすがに現実の風景を思い浮かべるが、記憶の中から映像を引き出して参照している、というふうで、虚構の風景に入り込んでいるわけではない。
 ただし、よく考えてみると、場面の「光の加減」だけはなんとなく思い浮かべているようで、昼か夜か、室内か屋内か、という点は、漠然とでもいつも意識している気がする。『ゴーメンガースト』や『グローリアーナ』は、読みながら具体的な城の情景を思い描くことこそなかったが、ひたすら黒い光のなかを進んでいるような印象だった。
 その他の五官が働く感じもなく、読んでいる間は言葉の世界に沈潜しているのだと思う。
 ただし、小説ではなくて詩を読むときには、しばしば映像を思い浮かべている。

☆色々なケースがあるので一概には言えないが、ありありとリアルな輪郭を持った映像と言うほどではないように思う。夢の中でのような感じ……と言ってもリアルな夢を見る人もいると思うので説明にならないかも。または、絵それ自体は違うけれども、昔の絵巻物の描かれ方の感じに近いかも。源氏物語絵巻とか、建物を上から見ているのに天井がないとか、都合のいいところだけ拡大したように見え、そうでないところは雲や霞で覆われたり、周囲がぼんやりと灰色か闇(あるいは単に色がないのかも知れない)にとけ込んでいく、などの感じ。
 特に空間的な広がりには、音あるいは響きが伴います。メロディではなくて音色、響き。匂いとか手触りなどの感触、湿度、雰囲気に反応する(またはそれらを想起する)ようだ。人物よりも風景。
 読んでいるとき、大概は、自分の視線の高さは、どちらかというと俯瞰、あるいは人物の肩越し(背後霊みたいに)であっても自分の足はその地に着いていないと思う。自分の足がその舞台の地面についたと感じられたとき=登場人物の視線の高さで世界を感じられるときがある。
☆基本的に映像として浮かぶ。特に建物とか家の内部などを視覚化できないといらいらする。
☆映像はあまり、あるいはほとんど浮かばない。映像的なものとして意識して小説を読まない。
☆映像はあまり浮かばないというか、イメージよりも言葉そのものに吸引されてしまうので、そちらには意識がいかない。ただし、映像化しようと意識すればそのようにもできる。普通に読んでいるときにはそれはない。

◇小説は内容を理解するだけと感じている場合でも、言葉にはさまざまなイメージを抱いていると思います。例えば「鴉」と言えばなんらかのイメージが浮かぶと思います。それさえも映像的でないということがあるでしょうか。
◇「優美」のような抽象的な言葉ではどうでしょうか。私は映像人間なので「優美」も視覚化されます。また、その他の五官も多少働きます。さらに「したがって」「なのだ」というような、言葉についてはどうでしょうか。

☆語にさまざまなものが付帯していることは意識しているが、映像化されることはないと思う。
☆文字の象形的なイメージは強く感じ取るが、個々の言葉にもイメージはある。例えば「優美」から来る視覚イメージは、ブルトン「優美なる死骸」の影響を受け、常に「デスマスク」として浮かんでくる。また、「したがって」「なのだ」についてはあまりイメージが浮かんでこない。
☆語のイメージも特に意識することはない。接続詞にイメージが浮かぶというのは想像もつかない。
☆「優美」というと、過去のそういう人物、物、映画などの思い出が、映像ではなく感覚としてよみがえる。そういう時には五官も働いていると思うので、映像的と呼ぶことが可能ではないだろうか。ただし、「したがって」「なのだ」などにはイメージはない。
☆文字に意味以上のイメージを感じることはあるが、やはり夢中で入り込んでいるときはそれを顧みることはない。「蠱惑」や「魑魅魍魎」みたいな押しつけがましい漢字はイヤなものだし、そういうものに意識が引っかかって醒めてしまうことも時々ある
☆「優美」……これなんかもぼんやりとした映像が浮かんでくる。もしかすると、かなりのものを頭の中で「画像処理」して読んでいるのかも……。
☆抽象的な言葉は視覚化されない。
☆接続詞等、補助的な言葉には、イメージはわかない。テンポやリズムは感じるけれども。
☆「鴉」には、はっきりした視覚的なイメージを抱いているが、現実の黒い鳥ではなく、昔見た一枚の日本画を思い浮かべる。「優美」はなめらかな運動の軌跡を連想するので、視覚的と言えるのかも……。どの言葉に対しても、単独で採り上げれば、あるイメージを抱いていることは確かだが、小説を読む時は単語のいちいちに立ち止まっているわけではないので……。
☆言葉には基本的に視覚的イメージが付随しているものだと当然のように思っている。視覚とは異なるが、言葉自体の音、リズム、響きも欠かせない。抽象的な言葉には、はっきりした視覚的イメージと言うより、仕草や表情(を見たときの感じ)に似たものが伴う。この言葉は赤、これは青といった共感覚というようなものはないと思う。あったら面白いとは思うが。

◇比較的印象深かった小説について、筋を教えてください、と言われたら、どのように思い出して説明しますか。

☆それは作品に拠ると思う。筋が言えないようなものもあるし。
☆「これこれここういう筋」と覚えていて言えるか、覚えていなくて言えないかのどっちか。
☆面白い小説だったのなら、先ず何枚かの挿絵のようなイメージが浮かぶ。それが記憶のインデックスになっているようで、絵が浮かばない小説は、どんな話だったか全く思い出せない。次に、登場人物や重要アイテムの線画みたいなイメージや言葉が浮かんでくる。で、もっとよく思い出そうとすると、頭の中に挿絵付きの本が出てきて、その頭の中の本をめくりながら、筋を話すような感じになる。本の紙面そのもの、文章そのものが頭の中に見えることもある。面白い話、気に入った話は頭に浮かぶ「挿絵」が多くなり、運がよければ、立体的な色付き動画になるが、話全体が映画みたいに見えることはほとんどない。
☆一番初めから順序だてて説明するが、イメージの固定化に強弱があるから、思い込みが激しくなる。
☆筋よりも文章がどうだった、ということに注意が行ってしまう。
☆やはり印象的なシーンが中心になる。例えば、貴志祐介の『黒い家』では「雑菌まみれのみかん箱に旦那の手をね……」といった感じで印象的なシーンを語っていく。
☆筋を説明するときは、極力一文で言おうとする。「マザーグースの歌のとおりに人が殺される話」「小カニが仲間を連れて親を殺した猿に復讐をする話」みたいに。それが無理なときは、「典型的なロールプレイングゲームのバリエーションだけど、○○が新しい」とかモデルストーリーとの類比を言ったりすることもあるが、そういうときはだいたい筋を忘れちゃっている。
☆もともと記憶力はよい方ではないので、順を追って筋を話すのは不得意。バラバラに浮かんだ映像をはぎわせてストーリーにしていく感じ。
☆キイワードとなる言葉から内容が引きだされてくることがある。作品によって違う。
☆まず、分かりやすくするためにジャンルを(無理にでも)特定する。そして、作品の舞台と時代を述べる。あとは、中心となる人物の行動・事件の顛末を最後まで語ってから、「主なストーリーはこうなんだけど、他にも印象に残るところはあって……」と、派生的なエピソードで重要なものを付け足す。

◇また、それとは別に、好きな小説について語ってください、と言われたら、まず何を思い浮かべるでしょうか。「読んでほしい」ということを伝えるために、「読め」と直接的に言わないとしたら、どういうことをしゃべろうとするでしょうか。
☆その小説のどういう部分が面白いと自分が思ったか、自分が何を気に入ったか、というところを話す。
☆ここがすごいんだぞ! というところを語る。自分の場合、「好き」という感覚と「すごい」という感覚がかなり接近しているのでも結局、ここが好きだというところになる。
☆自分が好きだと思っている理由を述べる。日本の小説なら、特に文体について、こういう言葉遣いが好き、とか。翻訳の小説は、たぶん内容のみに留意しているので、感心した内容について説明すると思う。

☆まずやはりラストシーンを思い浮かべる。ラストが印象的でなければあまり「好き」とは云いにくいところがあるので。相手が未読の場合、ラストは語れないから、とにかく「好きなんだっ!」とストレートに訴えると思う。
☆最近面白かった「呪怨」を見てもらおうと思ったら、兄弟のお化けが次々人を殺すだけの話なんだけど、と筋をざっくり振っておいて、まったく次の展開が読めない怖さや、「リング」風であざむきつつ実は物語が解決に向かう気などさらさらない点等、宣伝口調であおってみたり、類型との比較でなんとか想像してもらおうとする……と思う。
☆読んだときの「感覚」を伝えたいと思う。頭から手に抜けていくような感覚を。
☆ 最初に思い浮かぶのは、作品全体から受けるイメージ。好きという感情は、そういうものではないかと思う。どこそこが良いから好きというのが先に出るというのは、頭で考えて納得したような気分になっているだけのように思う。話すときは、それを解析して人に話すわけで、結局、書評のようになる(笑)。
☆小説は、どういったシチュエーションで、どういうドラマが描かれるかが重要だと思う。そしてドラマが、読み手に何かを考えさせることが大切ではないかと。哲学的な域にまで行く必要はなくて、別な視点から何かを考え直すだけでも十分。読み手にきっかけをあたえる小説を、よい小説として、勧める。説明するのは、どちらかというとシチュエーションで、ドラマのストーリー自体は、あえて伏せて、実際に読ませると思う。
☆自分が考える長所を述べる。ただ、「優れた小説」ではなく「好きな小説」について語る時には、同時にその「欠点」にも触れてしまうことが多い。バランス感覚なのか、「でも好きなんだ!」を強調したいためなのかは自分でも定かではない。それから、「長所」「欠点」を判断した自分の基準は、相手に分かるようにしておく。
 読んで欲しいときは、全体の雰囲気を説明する。その際、説明する相手の顔を見ながら、たいていは他の小説(場合によっては映画・絵画)との類比を使う。「ルーセルと島尾敏雄が合作したようなディストピア小説」とか。

☆もともとは、好きだ! どう好きか、どこが好きか! ということを感情的、情緒的に 言ってしまいがち。好きな作品ほどそうなってしまい、同じ好きでもやや距離がある(自分とはやや異質な)ものの方が、こういうわけでこうなっているところが好きだ、良かった、と述べることが出来るように思う。
☆一般受けするであろうと思われる作品については、自分が読んで自信を持ってお薦めできるというある種の太鼓判を押し、舞台・人物などの説明、どういう特徴があって、どの点が良かったかについて述べると思う。
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