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水の道標

言語と思考〜文学を読む③補足

 ある言語哲学の本を読んでいたら、思考は言語を使わずにはできない、というようなことが書いてあった。文脈から見て、言語というのは、言語を成り立たせているような構造を含めてのことではなく、こうして書かれたりしゃべったり、頭の中で展開されたりする「言葉」という意味なのだと思われたが、そのような意味での言葉を使わないでに思考することは、たくさんあるのではないかと私は思う。例えば数学の問題を考える時、特に幾何的な難問に挑んでいるときに言語で考えたりするだろうか。幾何的なパズルゲームでも良いが(例えば落ち物と呼ばれるものはすべてそう)、どう考えても(この「考え」も状況を想起しながらそれをヴィジュアル的、と言って悪ければ図式的で言語を使用していない)、言葉は使わない。しかしもちろん考えている。そしてそういうゲームをしながら、バッハを聞きながら頭の中で一緒に歌い、さらに「ああ、やっぱり言語で考えてないよナー」などと半言語(理路整然としていない言葉)で考えている。
 中井貴志の『アリス』を読んでいたとき、人間の普通の脳は一次元だという解説があった。この作品の脳理解も次元理解も科学的にはダメダメなので、その点には突っ込まないが、この一次元説の説明がすごい。
 私たちがものごとを考える時、私たちは言葉で説明する。言葉は、三段論法が典型的だが、いろはにほへと……と順番に理解を得られるようになっている。一次元とは要するに直線ということだが、直線的なのである。X+Y=4 X-Y=8 両式をたすと2X=12だからX=6 Y=-2 とまあこんなふうに考えるしかなくて、突然、Y=-2 と出て来たりはしないのだ。このように説明すること自体、一次元である。
 ……こんなふうに説明してあったわけではないのだが、ともかくも直線的にしか思考が働かないとしていた。
 この考え方は、思考を単旋律の音楽になぞらえることだと言っても良いだろう。
 人間の認識自体は常に多重的であるし、身体活動・認識・思考もまた並行的に行われるが、理路整然と書くことは、確かに単旋律かもしれない。私によってここに書き記されるものは、直線的にしか出現しえないだろうし、読む側にとっても、直線的に読んでいくほかないだろう。しかし、人間の思考はそんなに単純ではなく、直線的にものを考えるだけなどということはあり得ない。さまざまな思考を紡ぎあわせた結果として、あたかも単旋律のように見えるものが表出してくるに過ぎないのである。そしてそのさまざまな思考の中には、声無き思考、言語を伴わない思考があるだろう。人間はヴィジョンとしてものごとを思考することが出来る。あるいは動物も出来ることかもしれない(というかいかにも出来そうな感じがする)ので、原始的な方法なのだろうけれど。
 私はこの一ページの文章を書くに当たって、一つのひらめきをもとに書いている。言語なしで思考するということをめぐってのひらめきである。しかし、それを言葉で説明することはできない。例えば川が流れていてそれが海へと注ぐという映像だとしよう。すべては流れる、ということを考えたのだとしよう。しかしそれに対応する言葉はなく、ただイメージだけがある。そんな感じに近いのだが、こんな風に説明してしまうと、まるで言語のなぞりのように見えてしまう。ひらめきは、こんな散文的なものではないのである。犬の意識を言語で説明しようとすると嘘っぽくなってしまうのに似ている。
 で、そのひらめきがあり、そこから「言葉でしか考えられないということはない」という言葉が生まれてくる。そして、それを説明しようとして、はなはだ迂遠な感じで、この文章を書いている。だが、言葉で説明するしかないし、読む方は言語的に理解するほかない。もしも似たような体験を持っていれば、あのことだと瞬間的にわかる。しかし、そのような体験がなければ、結局それは理解できない。
 ……わけがわからなくて申し訳ない。
 ここで考えられる反論は、そのようなひらめきは、理解、認識であって、思考ではない、というものであろう。そうではないのだが……。言語を用いて頭の中でなにごとかを組み立てていくのが思考であると逆定義されてしまえば、反論の余地もない。
 アニメやマンガには、パントマイムの伝統があって、まったく言語を使わずに表現することがしばしばある。見る側はそれを言語化する。もちろん作っている側も、本当は言語化している。それを故意にはずしている。はずすから、魅力的になるということがあるからである。だが、それが言語を介在させないままで、感情以外のものを伝えることがある。私は何かを理解しているのだ。それも思考ではないと言われるかもしれないが、似たような例として挙げてみた。
 どんどん論がほどけていってしまうが、要するに、意識化されないところで何かを考えている(というのは、よく聞く話。夢うつつの時に解決を瞬間的に思いついたりする)ということではなく、単に、言葉を用いずに漠然と考える、ぼんやりと考えるというような状態。
 繰り返すようだが、言語化されない思考はある。そして、そうしたものも含めた私の思考全般は、複雑で、それを説明しようとすれば、直線的にはなりようがないし、またそれゆえにとてつもなく面倒なことになるということだ。実のところ、ものを書くということは、常にそういう面倒なことなのであって、書いてるときにはうまく書けたという気が決してしないもので、時間が経って何を考えていたのか忘れると、ちょっとはまともに見える、というようなものであるように思われる。考えられていた複雑さや精妙さを忘れるからである。もちろん、時間が経ってもダメなままのものも多いけれど。
 文学に関する文章は、面倒なものの中でもきわめつけに面倒である。真剣に、と言って語弊があるなら、十全に書こうとすればするほど面倒である。したがって、私は文学について何かを書くことが好きではない。好きではないのに、なぜ書くのか、と訊かれれば、喜んでやりたいようなことではないが、うまく書ければ達成感があるから、とでも答えるだろうか。半分くらいは義務感だろうか。まだ、義務感がある、というところか。だいぶ抜けてきたとは思うのだけれど。 もとに戻る

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