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水の道標

文学を読む③文学研究と批評・評論◆       (2004.04)

 本を読んでいるときに、その読者にどのようなことが起こっているのかは、まちまちだということは、アンケート結果からもよくわかる。
 アンケートでは文学研究や批評のプロにも訊いているが、趣味で読んでいる時と、批評や研究の対象として読むときとは違うのか、と言えば、やっぱり違うだろう。一度目は同じかもしれないが、研究や批評の対象とになる本について、一度読んだきりで何かを書いてしまうなどということはまずあり得ないので、二度三度と読む。二度目三度目目の読みが最初と同じになるわけがない。どこかしらに力点を置いた読み方をしたり、あるいは非常に精密に読んでいきながら問題点を探っていったりすると思う。この時にどのように読むのかというのが、批評とは何かという問題に直接つながってくる。
 やや迂遠ながら、文学研究ということについて振り返り、文学を読むということの前提条件についてひとまずは考えてみたい。


 文芸批評が成立したのは、いつからだろうか。このような言葉が一般的となったのは近代以降に違いないが、文芸批評・文学論・文学研究の類は、長い歴史を持っている。西洋だとまずアリストテレスの『詩学』ということにでもなるのだろうか? よくわからないので、日本の場合について言えば、少なくとも、批評・研究など〈文学についての言説〉には千年以上の歴史がある。
 日本では文芸の主流は演劇ではなくて漢詩・歌である。詩学はよくわからないのだが、歌学については、紀貫之「古今和歌集仮名序」(10世紀初頭)がその嚆矢とされているのではあるまいか。「やまとうたは、ひとのこころをたねとして、よろづのことのはとぞなれりける」というわけで、日本文学畑の人ならずとも、かすかに聞いたことがおありだろう。これは和歌の本質・効用・歌体・優劣の基準などを語るもので、批評を伴う歌論というところだ。「仮名序」自体はアンソロジーの序文に過ぎないが、やがて評論だけが独立した歌学の書は平安時代後期から多く書かれるようになっていく(あるいは現代にまで残るようになった)。
 また、物語論ということならば、『無名草子』がまず挙げられるだろう。12世紀末から13世紀初頭ごろの成立で、『源氏物語』を頂点とする物語の優劣、魅力、キャラクター評などが書かれている(ほかにも実在の女性論なども含む)。今現在読んでも批評とは何かということを考えさせられる一冊である。この作品について桑原博史は、あまりにも著者の心理・思考があらわであるから、「対象を客体化して扱う文学論として『無名草子』を読むことは、もともと無理なのである」(1976年刊『新潮古典文学集成』解説)と述べているが、このような評言にもまた検討の余地があるだろう。まず初めに客体化されているかどうかは程度の問題に過ぎない。著者の好みがあらわかどうかは、基本的にレトリックの問題なのである。著者は少なくとも奇瑞がやたらに起きるようなことは「リアリティに欠ける」と否定しており、これなどは充分に客観的な態度とも言える。また、『源氏』以後の物語作者には『源氏』という手本があるが、『源氏』以前には『竹取』『宇津保』『住吉』ぐらいしかなかったものを、よくぞこんな作品が書けたものだと評価するのは、例に挙げた作品がファンタジーと継子物であることからも、まったく理に適っている。各物語やキャラクターの良い悪いを、その場その場の気分に従った好き嫌いで判断しているわけではなく、著者は彼女なりの信念と批評基準に従って裁断しているのである。物語についての規範が何もない時代に、自ら規範を作り出さんとして、と言って言い過ぎなら、自ら規範を作り出してまで語られるこの書物が、客観性を含んだ文学論でなくて何だというのだろうか。
 ところで、研究の方は、例えば『万葉集』では読みを確定する作業が10世紀には行われているが、そのような読解作業から始まると言っていいだろう。万葉集などは千年の積み重ねによって現代のような訓読がなされていて、すべての研究はその上に成り立っている。また、『源氏釈』のような書物に見られるように、出典などを記していくような注釈もまた、最初期の研究と言える。教養の体系は、時間の流れが緩やかな古代にあっても変遷するということである。中世期を通じて、歌学書・訓釈・注釈書の類は地道に書かれていくが、江戸時代に至って、加茂真淵・本居宣長を初めとする学者たちによって大成され、近現代の古典文学研究の直接的な基礎となったのである。
 つまるところ、文学研究とは何かということをごく単純化して言えば、テキストを読む、ということに尽きる。批評・評論にしてもまた、テキストを読むということにほかならない。
 研究で行われることは次のようなことだろう。
 第一にテキストの確定。万葉集における読みの問題ばかりではない。判読しにくいものや虫食いのあるものもあり、結局穴空きのまま埋まらない、ということもあるのだが、ともかくもテクストの復元は必須の作業である。いくつも異本があるものでは、いわゆる校訂の作業も必要になる。これは実証主義的な文献学とでもいえば良いのだろうか。このテキストの確定の作業において、おおもとにあるイデオロギーは、原本主義である。常に目指されるのはオリジナルの「正しいテキスト」なのだ。これは日本だけではなく、ヨーロッパなどでも同様のようで、この原本主義には、歴史的な感覚というものが大いに与っているのではないかと思われる。このテキストによって私たちは過去へ通ずる、という感覚である。正しい唯一の過去というものがあって、そこに文献を通してたどりつけるという幻想。書かれたテキストというものは、そういう発想を促すのである。口承文芸しか持たない人々は、正しいオリジナルのテキストがどうだこうだということとは無縁だろう。もちろん自分の語りの方が正しいとか、こちらの方がオリジンだ、と主張することはあるだろうが、どう頑張ってみてもそれを証明する手だてはないのだから、それらはすべて権威や正統性の主張というまったく別の文脈で考えるべきものになる。
 さて、このように確定されたテキストについて、語句の意味の追究、文章の解読がなされていく。語句の意味に関しては研究の長い歴史があって可能になることである。引用の出典を突き止めることも、語句の意味を追究する作業の一環である。
 こうしてようやくテキストが読んで理解できるものになるかと言えば、これがならない場合もある。『源氏』などは主語なしでダラダラと文章が続くので、だれが何を言ってどこでどうしているのかといった文章そのものの解読作業が必要になってくるのである。もちろん古典でも文章によっては、必要ない場合があるし、現代文でも、読者と書き手の関係によってはそういうこともありうる。凝った文体を理解できない、という状況を考えてもらえば良いだろうか。
 こんなふうな過程を経て、ようやくテキストが読めるようになる。だが、作品をちゃんと読み取るためには、最低限、当時の文化状況、作者の立場など、作品が書かれた背景を知っているべきであると思う。平安時代の貴族の生活をまったく知らずに『源氏』を読むのは無理がある。何も知らないままで感性に任せて強引に読めば、男が女を訪ねていく様式がユニークだということにばかり感動してしまうようなことになりかねないからである。どんな文学を読むためにも、最低限の背景理解は必要である。(もちろんトンチンカンな形で感動したい、と願っている人にまでそれを無理強いする気はない。誤訳だらけの翻訳を読んでその本を読んだ気になれるというなら、それはそれで各人の自由である。私はバカらしいと思うが。)その理解のための知識を提供するのも、研究の仕事だ。
 やや話は逸れるが、こうしてみると、文学研究は、時代とともにやることがなくなるということもわかる。古ければ古いものほど、先人が研究しつくしており、研究すべきことは少なくなる。近代以降はまた別で、もともと研究的にはやることが少なくて、古典学者の前では研究というのも恥ずかしいようなことをやっていることも多い。
 古ければ古いほどエライというのは、日本ばかりでなく西洋でもそのようで、ギリシャ・ラテンというのは学問の名に値するが、近代文学の解読を学問と称すなどおこがましい、という考え方があるらしい。まあ、現代ではどちらも終わってる、と思うのだけれど……文学という制度が、大学と共に存続するかぎりは、研究という名のもとに何をやっているにせよ、飯を食っていける人間が存在するということだろう。
 閑話休題。テキストを読むための下準備はすべて文学研究の範囲である、と言っていいだろう。あらゆる細部を十全に理解するための基礎を提供すること。それが文学研究の第一のつとめであると思う。そしてそれをもとに、読者は読むだろう。
 読者が読めれば、それでおしまい、ということで一向にかまわないのではないか、と思われないでもない。だが、批評・評論がそれでも書かれるのは、クリティックの書き手が、読むことにおけるエキスパートで、一般読者を越える読み手であると認識されているからだろう。
 一般の読者は、特に何の意識も持たずに読む。そう言っては真実を伝えていないというなら、その作品をわかろうとしながら読む。しかしこれは無意識の行為であって、現実には端的に読んでいるのだと思う。
 研究や評論の場合、どのように読むかという方法論を意識して読む。そして読んだ果てには、これについて書く、という意識が潜んでいる。これが一般的な読む行為と、批評に関わる行為との決定的な差異であると思う。
 読むことにおける方法論(それを批評理論と言ってもよいだろう)には、いくつかの方向性がある。私見では、古典的研究の方法、批評的方法、評論的方法の三つにおおまかに分けることができる。截然と三者に分れるわけではなく、複合的なことも多い。
 古典的研究とは、正しいテキストを追究するように、正しい読み方を求めるものである。その読みを評価する基準は「正しいか正しくないか」である。ごくオーソドックスなこの批評の形式では、作品と作者を絶対視して、作品に沿った解釈しようとするわけである。文学研究では作者の生い立ちとか作品が書かれた状況とか、作品の周縁にあるさまざまなものに目配りをする。そしてその作品が何を意図し、何を目指してて書かれたか、その作品で作者が伝えようとしていることは何なのか、それを知ることを読むことの目的とする。何らかの小説を読んで、「この作品がわかった」という感想を抱くとき、私たちは無意識に〈正しい読み〉というイデオロギーにとらえられているということになるだろう。このイデオロギーの拘束力は、日本ではたいへんに強いと思われる。なぜなら、国語と称する奇妙な文学の授業で、さんざんそういうことを考えさせられるからである。それは大学入試にいまだにつきまとっている。ということは、日本の大学では、いまだに〈文学には正しい読みがある〉というイデオロギーが生きていて、研究をする上でもまずそれが第一に考えられているということだろう。これはいささか驚くべきことである。なぜなら、今や作品から作者の無意識を引っ張り出してしまうような読み方は世界的な常識だからで、そういう読みでは、理屈さえきちんとつけば、どんな読みも不可能ではないからだ。あるいは、大学入試において文学の解読をさせるという試験問題があることが、日本の文学研究を逆に規定しているのではあるまいか。
 さて、批評的方法というものはどんなものかというと、『無名草子』のように、ある規範に則って、優劣という観点から述べようとするものである。あれこれの作品を比べる事もあるし、一作品の特徴を、歴史的文脈の中で考えたりすることもあるだろう。江戸時代に行われた「評判」と呼ばれるものがこれに当たるだろうと私は考えている。規範の基準をどこに置くかでさまざまな批評的立場が得られる。古典的文学史(?)に則って読めば、研究的読みにも近くなるだろう。また、規範を「自分の感性とか興味」などに置いて読む読み方は、少しは本を読んだりするような人が多くする読み方ではないだろうか。ネットの読書ページなどのごく一般的な方法論がこれである。面白い・面白くない、というような好悪を判断をする読み方。よく出来ている・なっていないというような優劣を判断する読み方がこれだ。この規範は、個人的なものであるように見えて、社会的なものである場合が多い。例えば小説として上手いとか下手といったことは、小説とはどのようなものかという規範があって初めて判断可能になるのだが、小説とは何かについての理解は、個人の中にまったく独立的に存在するものではなく、これまでの教育や読書体験(解説や書評など批評的なものの読解も含まれる)を通じて得られたものであり、かなりの部分が社会的であるからだ。このことについては主観と客観の項も参照して欲しい。
 そして評論的読みだが、これは作品を読みながら作品そのものについて考えているとは限らない、という点で、最もフレキシブルなものである。たとえさまざまな周辺知識を作品について持っていようとも、あるいはそれだからこそ、素直ではない読みが可能になる。カルチュラル・スタディーズのようなものは、この読み方ということになるだろう。別項でやや詳しく説明しよう。
 この三者は截然と分れているわけではもちろんなくて、研究的かつ評論的という読み方もあるし、評論と批評が一体となっている読みもあり得よう。
 私自身が批評にこだわるのは、それにいちばん面白味を感ずるからである。
 『元禄俳優伝』という本は、歌舞伎評判をもとに上方と江戸の名優と呼ばれた人々を紹介するものだが、歌舞伎評判の作者が、それまでとは違った型の芝居に面白さと魅力を感じたなら、それを大々的に擁護して、大衆にもその新しさい面白さに目を開かせるということが現実にあったという。批評が新しい規範を作り出し、世界観を変えていくというみごとな例である。そういうダイナミズムが私にとっての批評の面白みの一つようである。私自身の現実では、こんなことが起こりようがないのではあるが。
 なお、書評のための読み方というのもあるのだが、基本的には批評的な読みということになる。規範を何に置いているかが、そのときどきや書評家によっても変わるので一概には言えないが、これは別ページで一例を示す


◆研究・批評の方法論◆

 先日、エミール・ファゲの『読書術』(中公文庫)を読んでいたら、こんな引用があった。「それについて語ることが出来るために書物を読むことには、私は倦き倦きしている! それもう読むことではない。それはもう身を委ねることではない。それは反逆することである。著書の中に読むよりは、遥かに多く自己の中に読むのである」(サルセー/石川湧訳)。私には充分に共感できる言葉である。
 〈それについて何かを言うため〉の読書(仮に研究・批評的読書と名付ける)と、ただの読書は明らかに違う。根源的な違いはあまりないのかも知れないが、やはり意識の上で違うので、それはかなり大きいと言わざるを得ない。研究・批評的読書は、自分は研究・批評的読書をするのだと意識することから始まる。それは、「とにかく意識的に読む、つまり細緻に読む」という覚悟と等しい(というか、等しくあるべきだ)。一般読者です、という立場で読むときはどんなに薄ぼんやり読んでもかまわない。一般読者というのは、暇つぶしか楽しみ(喜び)のために読むのだが、そのためにはサルセーの言うように「身を委ねる」ということが必要なのだ。意識的な読みは必要ないのである。書評家というのはおそらく、一般読者です、という立場にいるつもりになって読むものだろう。無意識のうちにあれこれ考えているが、表面的には一般読者として読む。私個人の理想としては、さまざまな吟味は水面下の波のような存在であってほしい。もっともそううまくはいかないのだが。
 また、自分はどういう研究的立場で読むのか、ということも意識されなければいけない。何のために作品を読むのか――作品の意味するところを追究するのか、作品の価値を見極めるのか、作品を利用するのかといったことをである。
 意味の追究は最もニュートラルでありやすいが、方法論は多岐にわかれ、価値判断の方法論は一つしかないが、何を規範にするかで千差万別になる。作品を利用するだけというのは言葉がやや悪いが、例えばサイードがオリエンタリズムを論ずるに当たってジェーン・オースティンを引き合いに出したように、本当の眼目は作品そのものというよりは、作品の背後にあるということである。「この作品から何かを引き出そう」と考えて読むような読み方は、意味を追究しているのではなく、作品を利用する読み方である。ある作品の文学研究などは、ある程度進捗すれば、みな最後の利用する読み方になるのではないだろうか(意味の追究についてはもはやすべきことが残されているようには見えないため)。逆に考えると、研究し尽くされたように見える古典の研究を延命させるために、カルチュラル・スタディーズ的な文学研究が考えられたと言えなくもない。
 実際に書かれた評論は、この三つの立場のどれなのか、見分けがつかないことも多い。だが、読み手がどのような意識で読むかで、読まれた文章は伝えるものを変える。だから一つの作品によって一人の人間でさまざまな論考が可能になる。すべてを意識しながら読むことは不可能だが、意識するところをずらしながら何度も読めば、いろいろな立場を総合したような論考が書けるだろう。口で言うほど易しくはないが。
 意味の追究とは、この作品に描かれていることは何かを中心的に追究するものである。作者は何を言わんとしているのか(現実の作者をめぐる実証主義的研究、あるいはその正反対のテクスト至上主義的分析)、あるいは作者は何を隠蔽したのか(精神分析的批評)、時代背景を考えればどういうことが書かれていたと考えられるか(歴史的研究)などなど、詳しくは文芸批評理論の本でも読んでいただきたいが、何らかの方法論に依拠して読むのであり、方法論がしっかりしていなと、読み方も曖昧で中途半端になる。もちろん上にも述べたように、いろいろな方法論でトライすることはできる。しかしそうしたことは明晰な頭脳を持っていないと出来ないと私は思う。
 精密に読んでいるつもりが単なる深読みということもしばしば起きるので、さまざまな哲学的思考法を持ちだして、片言隻句を検討しながら読んでいるからといって、それが「正解の読み」(ただ一つの正しい読みということではない。その作品において妥当な読みということ)だなどということにはならない。もっとも「正解の読み」かどうかは問題にならない場合も多く、明らかに「間違った読み」(例えば神林作品はSFではないとか、『アクアリウムの夜』は謎解きミステリーであるとか)でも、場合によっては通用して、その読みが素晴しいなどと評価されることもある。
 さて、価値判断のために読む、というのは、すなわち文学史的に読む、ということである。文学史と言っても唯一の文学史があるわけではなく、例えば怪奇文学の流れというものを想定し、その中での位置を確定しようとするのである。私は、これを批評と言っていて、いつもこの立場に同情的なのだが、実はこれほど図々しい読み方もないのであって、我こそがスタンダード(基準)なりといつも叫んでいるようなものだ。私は自分がこういうことをしているという自覚があり、ほとんどお笑いだと思っているが(そしてそういう立場を楽しいんでいるところがあるが)、しかし、そのようなことをちらっとも思わずに、批評家を志すなんてことはあり得ないとも思っている。
 好き嫌いに代表される感性的な価値判断は、単なる印象批評とさげすまれるが、印象批評にしてもまた文化的装置の中であらかじめ仕組まれていないとは言えないので、その限りにおいて、精密な分析批評と同列に扱うこともできる。つまり印象批評そのものを解析してみれば、何らかの価値基準が見つかる可能性があり、その基準(規範)さえはっきりすれば、それは文学史的価値判断と次元的には同一になるということだ。
 とはいえ、価値判断の批評は、印象批評(テリー・イーグルトンの言葉を借りれば、「ポテトとトマトとどちらが好きかという意味もないおしゃべり」)と言われることを避けるため、規範を厳密にして説得力を持たせようする。精密な読みを披歴して圧倒し、文学史(当然、固定化されたものではなく、その読みをする人がそれぞれに自分の判断で考えるものなのだが、ある程度の幅しか持ちようがないのも事実なので、いくばくかの「現実性」を感じさせるもの)という大親分をバックにちらつかせて恫喝するというようなものとも言える。それは一種のパフォーマンスであり、刹那的なものだ。今この時この場所という限定された世界でしか通用しない。もっとも、だいたいの書かれたもの(時間を越えて形が残るもの)は限定的な世界でしか通用しないものだが。時として時間を越えて生き延びることはあるけれども、意図してそうできるわけではなく、たまたまそうなるに過ぎない。
 作品を利用する読み方の典型はカルチュラル・スタディーズである。ここでは文学も新聞のコラムも全部テクストとして扱われ(ほかの二つでもそういう面はあるが、一緒にする仕方が違う)、文化の解読の用に供される。フェミニズム批評とか、先ほども述べたように、ポストコロニアル批評とか。『幻想文学』で私が作ったテーマ別特集なども、まあその仲間である。誰もそんなことは言わないが。こうしたものは、作品の一部を強調的に扱って、テキストを全的なものとして読まない傾向が強いので、論者の作品分析の恣意度が高まる。利用という所以である。顕微鏡的に読むような読み方をすれば、作品というのは、いろいろな顔を見せるものだが、文学そのものからは遠ざかる。もともと文学の研究というよりは、文化研究に近い読み方である。文化的研究というくらいだから当たり前だが。こうした読みによってあらわになるのは、作品そのものというよりは、作品の置かれた状況、または人間の歴史や文化である場合が多い。
 このカル・スタ系というか、ポストモダンというか、そういう批評の形式が流行するようになってから、文学における規範(キャノン)なんてものはないという幻想が振りまかれたり、スタンダードだとかクラシックという概念が軽んじられたりするようになった。何度も言うようだが、規範はある。「無い」と言って見えなくしてしまうと、規範は逆に強化されるという側面も持っている。
 このポストモダンという外来の思想はまた、階級差の激しい欧米において、もてはやされたということも忘れてはならない。現代の日本でも階級格差が広がっているというが、それは現実には所得格差であって、日本人がはっきりと階級差を意識するのは天皇家だけだろう。日本はおそらく世界のどこよりもポストモダンな社会なので、敢えて上流階級の価値観(ブルジョワ的価値観・教養主義的な世界観)への反逆としての批評行為を打ち立てる必要がない。そんなものはとっくになくなっているのだから。大学の教師が偉いとか教養がある、などとは誰も信じてはいないだろう。そもそも、こうした西洋的な階級間闘争の観念をアジアに間違って応用すると、文革だとかポルポトのように知識人を殺しまくるような愚かしいことになってしまうのである。
 ああ、話がすっかり散漫になって、似たようなことの繰り返しになってしまった。方法論についての観念的な話は打ち切りにしよう。興味があればカル・スタ系評論についてのコメントもどうぞ。
 次は批評の意義について、批評にたずさわる立場から弁護してみようと思う。
次につづく

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