Isidora’s Page
水の道標

◆『アムネジア』――あなたはそれを探してはならない◆(2010.08)

  Ⅰ 危険な物語あるいは物語の危険
〈扉がきしみながら開く音がするの、ぎーってね。それから影が映る――開いた本の上に〉
 人もまばらな喫茶店で、主人公の青年・島津伶の恋人・理絵が映画の説明をしている。語っているのは映画の最後のカット。私たち(読者)は、どんな内容か、ほとんどわからない映画のラストシーンのイメージから、ひっそりと作品世界へと入ってゆくことになる。
 ――窓の外に広がる林。上空に微かな飛行機の音。室内には机に突っ伏して泣きながら眠る主人公の男。開かれた本。扉が開いて影が射す。それは戻ってきた彼女ではない。つまり、主人公は彼女を失っており、彼を見ているのは第三者。そして彼は目を開く。……
 喫茶店の外にはこぬか雨が降っているが、空は乳白色に明るい。映画の説明と相俟って、すべてが終わったあとの静けさが、あたりをおおう。小説は始まったばかりだというのに。
 この静けさが、あるいは、次のような伶の内心の思いに象徴されるようなペシミスティックな情緒が、作品全体を覆っている。〈すべては消えていく。いつか――やがて。(中略)すべては、どう始まって、どう終わったかにかかわらず、消えていくにちがいない。ふたたび蘇ることはないだろう〉。この静かな存在/喪失の観照は、やがて荒々しく異様な事態によって破られ、伶の感覚は裏切られ、現実は切断され、すべてが混沌に呑み込まれてゆく。それでもどこか静謐な気配を失わないのは、『アクアリウムの夜』とも共通する、本作の著しい特徴の一つだ。だが今は、作品の漠然たる雰囲気について、多言を費やすまい。
 ここではむしろこのことを言っておきたい。『アムネジア』を一読して、そのわけのわからなさに、もう一度冒頭に戻った私たちは、そこに、この作品にこれまで現れてきた様々なイメージが置かれていることを知る。そして、この作品が反復するイメージによって構築されていることに改めて気づく、と。すべてのイメージが二重写しとなって揺らめく。私たちの中で。あるいは語り手たる伶の中でか?
 カレイドスコープが同じ形を二度と作ることがないのにも似て、少しずつ微妙にずれながら繰り返される同じ言葉、同じ情景。意味があるのかどうかも分からない奇妙な暗合、つながりそうでつながらないいくつもの断片――はまりそうではまらないジグソーパズルのピースがばらまかれたかのような……。この『アムネジア』という不思議な小説は、私たちに何を語ろうとしているのだろうか?

   Ⅰ 危険な物語あるいは物語の危険
  上も下もない真っ白な虚空を、本が墜ちていく。必死になって手を伸ばすが、つかめない。繰り返し、繰り返し、本は墜ち続ける。――
 これは『アムネジア』の最後に出現するイメージだ。そして『アムネジア』を象徴するイメージでもある。
 このイメージに似たものを、ゲーム好きの人なら実際に見たことがあるだろう。――『MYST』、一九九三年にマッキントッシュ用として発売されたアメリカのゲームだ。高い人気を得て、世界的にヒットし、追随作は〈MYST clone〉とまで呼ばれるようになった。続編も数作作られている。『MYST』では、特殊なインクで本に書き込むと別の世界を創造することができ、本〈MYST〉を通してその世界に行けるということが大前提となっている。主人公(ゲーム・プレーヤー)は過去から墜ちてきた本を拾ったために、別世界に紛れ込んでしまい、わずかなヒントを手がかりに探索して回ることになる。『MYST』の世界は、既に滅ぼされてしまった世界で、人が誰もおらず、森閑としている。音響も映像も寂しさにあふれており、独特のものがあるが、そのオープニングで、本は星をちりばめたような暗い虚空を墜ち続けていくのだ。
『アムネジア』は、『アクアリウムの夜』(一九九〇・書肆風の薔薇[現水声社])の刊行後、間もなくから構想され始めたというから、この本が落下するイメージも、九三年の頃には、既に稲生平太郎の中にあったはずだ。だから、この〈虚空を墜ちる本〉のイメージが『MYST』にヒントを得たものだと言いたいのではない。日米で同時期に似たようなイメージが生まれたことに、多少のおもしろさを感じたのだ。『MYST』では、本は虚空を通して手渡されたに等しく、墜ち続けた本は、ついにプレーヤーに拾われ、別世界への通路となる。一方、『アムネジア』では、本には決して手が届かないまま終わる。もっともそれが『アムネジア』という本になって読者のもとに届けられたのだと考えれば、その構造はいささか似ていると言えなくもない。しかし、果たしてどうだろうか?
 この〈虚空を墜ちていく本〉の問題を考えるため、作品をたどり直してみたい。行きつ戻りつすることになるだろうが、まずは簡単に、冒頭から主人公の行動を追ってみよう。
 主人公の青年・伶は大阪の零細編集プロダクションで働いている。簡単なパンフレットや自費出版などを請け負う地味な会社で、伶はその時、華僑系の商社の社史の編纂を手がけていた。クライアントから渡された資料のうち、初期の頃のデータの一部を使わないようにという指示を受けたが、そのデータの中には徳部弘之という名前があり、伶はある日、新聞で偶然にその名を見つける。徳部が路上で横死したこと、そして、徳部が戸籍上は死者であったことを報じる記事だった。
 徳部に好奇心を抱いた伶は、恋人の理絵にその好奇心を洩らす。そして、理絵のつてでイエローペーパーの記者・澤本申と面会することになる。伶は澤本から、徳部は謀殺されたのかも知れないという予想外の話を聞かされる。澤本は戦後史の闇の中にうごめく巨大な資金を利用した〈闇金融〉を追いかけているが、徳部はそのキイ・パーソンの一人だというのだ。ここで少し説明しておくと、『アムネジア』の言う〈闇金融〉とは、一般に〈ヤミ金〉と呼ばれるヤクザ的な不当高利貸しのことではない。作品中でも説明されているが、表に出せない巨額の資金(例えばM資金など)があり、貸し金にして洗浄するシステムがあるという幻想のことである。この幻想を利用して詐欺を働くわけで、実際に金を貸すのではなくて、巨額の資金を貸すに当たっては保証金がいる等々のでまかせを言って、金を騙し取る。澤本は詐欺グループを追っているのではなく、M資金が実在するという幻想そのものにはまっているのである。
 伶は、澤本に引きずられるような形で、何人かの人々と会うことになる。徳部の若い妻、闇金融界で名前を知られている倉田重蔵、そして素人発明家の昆野とその仲間たち。倉田は、徳部は天才肌の発明家であり、自分は資金提供者だったと語る。昆野もまた、徳部は自分の先達とも言うべき人だったと、それを裏打ちするようなことを言う。しかし、昆野とその仲間は実のところ狂っており、昆野の発明は、未知のエネルギーを汲み取って現実のものとする機械だと説明する。面会の途中で昆野たちの機嫌を損ねた澤本は、いきなりスパナで額を割られて大怪我を負ってしまう。伶たちは何とか無事に彼らのもとを去ることができたものの、その夜のうちに澤本は何者かに殺され、伶も爆発事故で重傷を負う。
 一命を取り留めた伶は、倉田の事故死のニュースを聞いた後、病院を抜け出す。その時には既に理性の埒外に踏み出していた伶は、理絵を殺しかけ、さらに徳部の家に行くが、そのまま行方知れずとなる。……
 この展開をさらにおおざっぱにまとめると、一人の戸籍喪失者の死に好奇心を抱いて調べ始めた青年が、いくつかの奇怪な体験をした挙げ句、精神の平衡を失い、殺人(未遂)事件を起こして失踪する話、ということになる。
 ここで、「奇怪な体験をした」ではなく「事件に巻き込まれた」という風にまとめられるものであれば、よほど予想のつきやすい物語と言えるだろう。事件に巻き込まれて自分もまた犯罪者になってしまう……特に奇妙なことでもない。サスペンスある事件と、その間の主人公の懊悩を描けば、ミステリ作品にも純文学作品にもできるだろう。トリックがあれば本格ミステリに、わかりやすい〈アイデンティティの追求〉などがあれば純文学に、事件に現代性があれば風俗小説に、そして〈闇金融〉をめぐるあれこれに焦点を当てれば歴史小説にも――それほど一般的な物語の型だと言える。『アムネジア』はしかしそのような作品ではない。
 作品の冒頭から見ると、つごう三人の関係者が死に、二人が死にかけ、さらには銃撃事件まで起きているにもかかわらず、それらの事件を一本の糸でつなぐ根拠は薄弱だ。このようにあらすじをまとめてみればもっともらしいものの、そもそも、語られる出来事の間に関係があったかどうかさえ疑わしいところがある。伶と事件の関わりも定かではない。本作はジャンル・ミステリでないのはもちろんのこと、ほかのどんな物語の型に従った作品でもなく、〈連続する事件〉や〈変化していく主人公〉、〈歴史の闇〉等々の〈物語〉を追いかけていく小説ではないのだ。辛うじてプロットはあるが、ここには物語がない。この小説は物語ではないのである。
 理絵に会っている場面を皮切りに、伶は次々と人に会う。動作としては、人と会って話を聞く、というよりも一方的に話を聞かされる、それだけのことしか伶はしていないように見える。断片的な〈話〉だけが点在するという印象は、伶が思い出す児童文学の内容の記述、雑誌掲載のインタビュー、カストリ雑誌の座談会、小説「記憶の書」などの挿入によって、より一層強められる。小説に語られているすべての事象は、何となくつながりがあるようでいてばらばらで、まとまりがないのだ。だが、伶は、最後には恋人に手をかけるまでになっている。いったい何が起きているのか?
 前段で〈物語はない〉と書いたが、実際には個々人の中には物語があるのだ。首尾一貫した妄想と言い換えても良い。澤本は、巨大な資金が動く〈闇金融〉という物語を脳内に紡いでいる。倉田もまた〈闇金融〉について別の物語を、昆野たちは、異次元との接触というオカルティックな物語を紡いでいる。物語を貫徹するためには、時には澤本のように、死も受け入れなければならない。自分の探索が〈危ないところ〉に触れ、死をも招くものだと信じているならば、死はある意味で当然の結果だということである。
 伶は、初めは、例えば澤本の物語を、「薄弱な材料から根拠なく組み立てられた幻想を、きっと後生大事に抱え込んでいるんだろう」と、醒めた目で見ている。しかし、なおも徳部への好奇心は消えず、徳部の家を訪ねて探偵の真似事をして以後は、〈謎を解こうとする自分〉という物語にはまり始め、それを危険だと思いつつも、なかなかそこから逃れることができない。人は人生を物語化する誘惑にいつもさらされているが、非日常的な物語への誘惑はとりわけ強い。
〈闇金融〉の背景となる物語が非日常的なものであることは言うまでもないだろう(作中の言葉を用いれば資金源は「マッカーサー時代の蓄積円」「ユダヤ資本」「対中共の謀略資金」)。金額(「百億や一千億ゆう世界」「実際には五千億」)や登場人物(「国会議員のM先生」「大蔵(省)」「上と直でつながっている」)もすべて非日常的で、非現実的であればあるほどよい。その上に構築される物語も、あるともないとも言えないような曖昧なものが、逆に真実性を保証する。なにしろ「公にはできない話」なのだから。ちなみに、Wikipediaの「M資金」の項目には、次のような興味深い記述があった。〈非日常的な用語を多用して、被害者の思考を麻痺させている点〉に振り込め詐欺への影響が見られるというのだ。振り込め詐欺もまた、金額や登場人物こそ日常的だが、事故やトラブルなどの非日常的な物語を構築する物語的な詐欺なのだ。人々は一見もっともらしい、しかしそうそう起こりそうもない物語に、とても動かされやすく、容易に物語の中にはまりこんでしまう。
 このような、非日常的でもっともらしい物語の仲間として、オカルトが存在する。存在しないものを〈隠されたもの〉として〈在る〉と見る――闇金融とまったく同じ構造である。その物語の曖昧なところまでが似ている。そして、その幻想の中に生きる人々にとっては、それは〈存在しない〉のではなく、〈隠されて在る〉に過ぎない。オカルトの愛好家(?)として、稲生平太郎はオカルトの魅惑も危険もよく知っているだろう。自分たちの世界の真実性を守るために、いきなり凶暴化する昆野たちの態度はあまりにも恐ろしく、強い印象を残すが、オカルティックな物語が、人をどのようにしてしまうかをよく知っている著者ならではの迫真の表現と言える。
 伶の〈謎を解こうとする自分〉という物語は、初めは謎めいた現実を探偵が合理的な物語として構築するという意味でもあった。しかし、ひとりの謎めいた女の出現によって、そこに非合理な、オカルトめいた要素が混入し始める。女は倉田との会見になぜか同席しているが、仮面のように白く塗った顔、左手だけにはめた白い手袋とストッキング裸足といういでたちで、およそ、正気の世界に属しているようには見えない。そして伶についてこのように言う。「こんどのせいで失って、まだ取り戻していない。返してもらってないの」。この女の登場は、現実世界を一気に引っ繰り返してしまうインパクトを持つ。まさに通り魔のように。伶は、この言葉に触発され、自分に、中心的な役柄を担う物語(しかしそれは忘れられてしまった)があると思い始める。「僕にとって大きな意味を持つはずだという確信めいた思いだけが、いくら打ち消そうとしても、膨らんでいく」。これもまた、無いものを隠されているものと思う幻想だ。支離滅裂なところに意味を――というよりは超越的なものを見る、オカルト的な思考だ。こうして伶は、現実の裏にある真実を探求する者にもなって、密やかに別の物語の構築にもはまっていく。
 戸籍喪失者の死に興味を引かれたことによって伶は、闇金融とオカルトという二つの幻想へといざなわれた。そこからさらに、謎を解く自分という物語、〈忘れられた物語〉の主人公である自分という物語へと導かれる。同時に、〈自分は物語の中の住人ではない〉という現実的な意識も持ち続ける。物語たちと現実の間で揺れ続ける伶。〈丰〉という形に似た謎めいた記号が記された一枚の紙を、初めは「王」の字に似ているが何かの嫌がらせだと思い、それから澤本の名前「申」を読み取り、次には、謎の発電器を記号化した形と見たように。現実を物語化するという幻想の果てに待ち受ける非日常の最たるものは、当たり前の現実から見れば、それぞれ死(探偵)と狂気(オカルト)。
 爆発事故によって、死を経験した後に蘇生した伶は、探偵の道に戻るべくもなく、「本当の物語」の主人公の地位を取り戻す道――つまりはオカルト的な狂気を選ぶ。どのみち、物語から抜け出ない限り、悲劇は免れない。
 これはそのような物語の危険性を描いたメタフィクションなのだ。
 だが――本当にそうなのだろうか?

次につづく

★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★