Isidora’s Page
建築日誌
■旧金森洋物店(現市立函館博物館郷土資料館)■    2009年09月14日

ここは、廃屋ではございません。
お正月休みで、お店が閉まっているだけです。(笑)
お正月?
と言っても、数年前のお正月の写真です。
太刀川家住宅』『遠藤吉平商店』と並ぶ、函館三大煉瓦造三連アーチ明治商家建築様式のひとつ。(長っ!)
これを登場させなければ、このシリーズは終わらない。(笑)

『旧金森洋物店』(現市立函館博物館郷土資料館)
竣工は明治13年(1880)。
設計は池田直二。
施工は池田直二、佐藤利之助。
煉瓦造2F建て、漆喰塗。

この建物は、明治11、12年の大火の後、本店・支店とも失った函館の豪商、初代渡辺熊四郎が洋品小物店として建てたもの。
明治40年の大火でも難を逃れて、現在まで129年の風雪に耐えている。
当時の開拓使は、大火の多い函館の街に防火建築を普及しようと奨励金を出したとのこと。
今で言う200年住宅に対する助成金みたいなものだが、まあ200年も家がもつとなると、孫の代ではこんなレトロな家に住むことを覚悟しなければならない。(笑)
それに、設備は200年後どうなっているか分からないし~。
この建物、200年までにはあと71年もある。
それでもあなたは200年住宅を建てるか?(笑)
……って、それはさておき、金森洋物店は大正10年に鉄筋コンクリート造の「金森洋服店」として生まれ変わるが、これが現在大門にある「棒二森屋」の前身である。
えっ?
「棒二森屋」?
これは「ボーニモリヤ」と言うデパートのことで、函館の女、いや、函館の人なら知らない人はいない。
むかし、宗男が東京から友達を呼んだとき「ポール・モーリヤ」と間違われたという超有名な逸話が残る。(笑)

設計者の池田直二(1844~1904)は「金森の太閤さん」とまで言われた人物。
当時、彼に教えを受けることを一代の名誉とした大工も少なくなかったと言われる程の偉人である。
10歳離れた実弟の登良二も、函館に擬洋風を残している。
父親は栄七といい、新潟の生まれで「池田屋」の後を継いだらしい。
この池田親子については面白いエピソードがあるのだが、恐らく皆さん方にはまったく興味がないでしょうから、話したいけど割愛する。(笑)
そのかわり、興味をお持ちの建物について説明したい。
えっ?
こっちも興味がないって?
そんなこと言わないで、ぜひとも聞いてください。(笑)

こう見えても、外壁を漆喰で塗り込められた煉瓦造である。
煉瓦の意匠は余りにも洋風過ぎて見えるため、こうして和風の親しみやすさを出しているのだ。
使用された煉瓦は「開拓使茂辺地(もへじ)煉化石製造所」のもので、明治7~8年の刻印が押されているらしい。
茂辺地(もへじ)とは、今では上磯町と合併して北斗市と改名しているが、あの「へのへのもへじ」の発祥の地ではないか?
……と、宗男は幼少の時から思っている。
いや、ただ思っているだけで、まったく根拠がありませんが。(笑)

この煉瓦、なんと耐火のために瓦屋根の下までぎっしり敷きこまれているという。
すると建物重量が重くなるので、地震には不利になる。
そこで、隅角部に「コーナーストーン」を据えて強度を増していると言う訳だ。
窓周りにも同じデザインが施され、これが何ともかっこいい!
まったく感心するのである。
お馴染みの三連アーチにも「迫り石」を使って重厚感を出している。
少々使い過ぎの感も否めないが(笑)、明治初期の庶民にはこれで充分おしゃれで、ここで舶来品を買うのが上流階級のステータスだったに違いない。
玄関上の庇にも「むくり」が付いており、これも洋風にしてはおかしなデザインですね。

ところで、看板にある「ケレー酒」「鶏(雉?)肉ケレー」とは、一体何のことだろうか?
よく分からないので調べてみたところ、野菜や鶏肉などを混ぜてじっくりと煮込んだスープ状のものであるらしい。
「カレー」がなまったものと思いきや、滋養強壮の薬であるらしく、余りの効き目にみんなから「わしにもケレー!、わしにもケレー!」(訳注:「わたしにもください!、わたしにもください!」)とせがまれたことによる。
……かどうか知りませんが、ここで「牛肉ケレー」のチラシが見られますのでどうぞ!(笑)
このケレー、観光客で賑わいの「金森赤レンガ倉庫」で現在も売っていると言う。
はたしてどんな味がするのか?
だれか、一度ためして見てケレ~!
なんてね!!
と、締めくくる。(笑)
【所在地】北海道函館市末広町19-15 グーグルマップ

旧金森洋物店 
旧金森洋物店

旧金森洋物店

旧金森洋物店

旧金森洋物店
窓周り・三連アーチの「迫り石」
旧金森洋物店
隅角部のコーナーストーン

旧金森洋物店 

旧金森洋物店