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水の道標

本と出版②    2004.02

●購買者●

 本は、マイナーな消費財である。あってもなくても構わないという点では携帯やパソコンと変わらないが、市場規模が違う。
 本というものは、最大限に売れても500万部というところであろう。シリーズでならともかく、一冊ではどう頑張っても、1000万部を越えない。一時期売れに売れた『少年ジャンプ』は650万部で、その時の最も有名な作品が『ドラゴンボール』だが、このアニメは視聴率も非常に高く、最高で27%を記録しているらしいから、テレビで見ている人は、3000万を越えるだろう。テレビの視聴率と比べてしまうと非常に虚しい感じがするが、100万部のミリオンセラー(超ヒット作)も視聴率では1%。出版業界はマスコミの一部なのだが、圧倒的多数の本というのは、ミニコミの世界と言った方が正しいと思う。
 ミリオンセラーのような化け物商品は、数万点のうちの数冊でしかないから、極端な例外として排除すると、よく売れる本と言われるもの(いわゆるベストセラー)でも10万部の世界なのである。
 ついでに一般的な単行本の部数の話をすると、かつては、1万部が壁と言われていた。これだけ売れると「売れる本」を造ったと言えるのだ。そして1万を越えることは難しい。だから壁なのである。流行作家であっても、ハードカバーならこの単位から通常は始まり(新書や文庫は別)、10万も売れれば、大ヒット(ベストセラー)で、それで一年間裕福に暮らせるのである。一冊1800円としても印税収入が1800万になるからだ。作家になろうとする人がこれほど大勢いるということは、そういう世界を目指すのであろうが、そんな作家ばかりのわけはなく、今では初版が7、8千部であることも珍しくはない。これはあくまでも実績のある作家の話であって、売れそうもない専門書では、百という単位だってありの世界なのだ。
 『ハリ・ポタ』の第四巻が上下巻セットで初版230万部という刷り部数から始まったのが、どれほど驚異的なことであることか、わかるだろう。ちなみに『ハリ・ポタ』は全世界で三千万部を売った『風と共に去りぬ』の記録を軽く塗り替えて更新中だ。半世紀ぶりの快挙である。その作品が大人向けの歴史恋愛小説ではなく、児童文学のファンタジーであったことは、なんとも言い難いものがある。どちらも映画化によってさらに売れるという現象が起きたことについては、半世紀経っても、変わらないものがあるということだ。つまり、映像メディアの影響力は大衆にとってきわめて大きなものである、と。
        
 さて、このマイナーな業界の主たるマーケットである読者とはどんなものなのか、ちょっと見ていくことにしよう。毎日新聞の読書世論調査である。

毎日読書世論調査
  1971 1980 1989 1996 2001
書籍を読む(%) 47 43 48 49 59
書籍を読まない(%) 53 57 52 44 33
一日の読書(雑誌を含む)時間(分) 44 46 48 58 59
本を読む人の時間(分) 不明 62 64 77 81
一ヶ月に単行本を読む冊数 不明 0.6 0.8 0.9 0.8
文庫本・新書 不明 0.6 0.8 0.7 0.7
本を読む人の冊数 不明 1.8 1.8 2.3 2.2
同・文庫・新書 不明 1.7 1.8 1.9 2.0
1981
もっと本を読みたいか 思う        
  63        
1989
読書が好きか 好き 嫌い どちらでもない    
  42 9 48    
書店には よく行く ときどき行く      
  22 41      
書評は よく読む ときどき読む      
  20 41      
書評は 気になる ある程度気になる 気にならない    
  2 21 74    
受賞作は よく読む ときどき 読まない    
  3 17 78    
活字度 熱中 積極 消極 アンチ活字  
  11 36 37 16  
学校読書調査
小中高の冊数(一ヶ月) 小学生 中学生 高校生    
1971 4.1 2.0 1.6    
1981 5.0 1.7 1.3    
1989 6.3 2.1 1.3    
1996 6.4 1.9 1.1    
2001 6.2 2.1 1.1    
一冊も本を読まない(%)   中学生 高校生    
1963   11.5 11.9    
1965   27.0 40.0    
1971   35.2 41.2    

 売上高の推移は、本のマーケットは決して拡大していないことを示している。しかし、読書調査は、読者が微増していること、また読書時間、冊数ともに微増傾向にあることを示している。本は読むべきだというふうに考えている人もなお多いのである。また時間があればもっと読みたいという人も多い。このことと出版界全体の営業不振(実売部数の減少)とのあいだにはどのような関係があるのだろうか。つまるところ、本の読者と購買者は同じだとは限らないのである。本は買っても読まない(飾っておくだけ)の人もいるだろうし、読むが買わないという人もいるだろう。つまり、最も単純な答えは、この不況下では、本は買わずに借りて済ませる図書館利用者が増えているということだ。図書館と書籍の販売のあいだには、大きな問題が潜むため、ここでは詳しくは立ち入らないが、私はあくまでも図書館肯定派である。また、新古書店、ブックオフの存在が大きいとも言われている。ブックオフはかつての貸本屋機能を担っていると思われるので(ちなみに、私は貸本屋世代の最後であろう。中学生の頃までは、貸本屋はなくはなかったが、ほとんど廃れており、婆さんの小遣い稼ぎ程度のものでしかなかった)、これに関わる本の万引きさえなければ、ブックオフもいいではないかと思う。ただし、ブックオフの興隆と、この傾向とは、始まりの時期がずれているため、あまり関係がないような気もする。
 本は2001年の統計では、8億6千万冊売れている。本を読む人口が約六千万として、年間24億冊は本が読まれている勘定となる。古書も買っていることがあるだろうが、古書業界の規模から見て、新刊書よりも冊数が多いということは考えにくい。つまり、それほど買わずに読む場合が多いということではないだろうか。少なくとも、学校図書館の利用度はきわめて高いので、それは考えにくいことではない。ともかくも、売れる本よりも読まれている本の方が多いという事実だけは、覚えておくべきだろう。一部の売れる作家が、図書館に対して不快感を持つのも故の無いことではないのである。とはいえ、近年それを騒ぎだしたということは、自分の本の売れないのを、図書館に責任転嫁しているようにも思える。なぜなら、刊行点数が少なく、本の冊数がそれほど売れていない時代でも、読んでいる冊数も、読んでいる人の割合もそれほど変わらない、つまり、今よりいっそう図書館利用が多かったかもしないからである。
 それにしても、本を読む人なら平均月に四冊の本を読む。それは、いわゆる読書家から見れば少ない数字かもしれないが、その傾向はこの三十年変わってはいないのである。だが、読書離れが叫ばれている。その実態は何だろうか。よくはわからないのだが、それは本の主要な購買層である若者が本を読まないということに尽きるように思われる。学生や若いホワイトカラーが本を読まない。また、買わないのである。それが大きな打撃となって出版界・読書界を襲っているのだ。
 学生の読書離れの傾向は著しい。実は、私が学生の頃から、学生は本をだいぶ読まなくなっている。私は友人たちが講義で使う以外の本を買うのを見たことがほとんどない。また、基礎的教養も圧倒的になくなっている。国語の教師になった友人などは、大学(早稲田)三年の時にに佐藤春夫を知らなかったのだ……。私が幻想文学会というところに入っていかぱかり感激したかは、言葉では尽せないものがある。しかし、当時はまだ本を読む人間はある程度以上はいたし、新書の一冊も読めない、などということはなかったと思う。私が『幻想文学』を作り続けたこの二十年のあいだに、そういう面もなし崩し的に衰えていったのであろう。『幻想文学』自体、大学生協ではよく売れたのだが、90年代に入ると、本当に大学では売れなくなった。学生は基本的に本を読まなくなったのであろう。
 岩波書店で児童書から一般書まで編集を務めた岩崎勝海によると、岩波書店入社試験における作文の変化は、生まれた時からテレビがあった世代、およそ現在50歳ぐらいの人々から変わり始めると言っている。60年代まではウェーバー、マルクス、サルトル、ボーボワールなどがあったが、1970年代後半の作文では、そうしたものは例外的となり、〈子供の頃にお母様から買ってもらった児童文学、中高時代は受験勉強、大学のゼミでの読書は読書ではない〉……という内容になるという。さらに問い合わせの内容も変わり、「感動した」「感想を送りたい」などというのはなくなり、「ゼミで使うから情報を、なるべく早く」というような自分本位なものになるというのだ。「書物を丸ごと読むというよりも、受け身で情報取得的に読むようになっている」と岩崎は言う。私自身もバッチリこの世代に当たるわけだ。70年代の後半から、読書の状況はもう今型にほぼ変化してしまっていると言って良いだろう。現在は、その形が極端になっている。深いところではグローバリズムとも無縁ではない世界的な社会の変化にともない、一極集中でヒステリカルな世界になっているのではないだろうか。私自身にもその病理の影が感じられないわけではないように思う。
 ともあれ、本は読まなくとも何とかなる大学というもの自体が、大きな問題であることも言を俟たない。大学全入時代とも言われる時を迎えているが、ただ遊んで暮らして卒業して、どうなるというものでもないだろう。現在の就職率の低さは、企業の責任でもあるけれども、大学生自身に起因するところも少なからずあるだろう。大学自体も徐々に淘汰されるが、学生自身も淘汰されるはずだ。現実に対して目を見開いている者だけが、生き残れるのは理の当然だが、果たして今の学生たちはどうだろうか。教科書以外の本をろくすっぽ読まないで、学士の称号をもらうなど、馬鹿げたことだという自覚が果たしてあるだろうか。
                  
 大学が戦後、大衆化の一途をたどったように、戦後の出版の歴史もまた、絶えざる大衆化の歴史である。戦後のベストセラー・リストをみていただこう。懐かしい名前が並んでいると感じるのは、何年からだろうか。
 戦後最初ののベストセラーは、誠文堂新光社の『日米会話手帳』という小冊子だが、これなど、まさに必要に迫られての、生活に密着したベストセラーと言えそうだ。そして戦後10年もすれば、今とほとんど変わらない読者傾向が出現しているのである。実用書、話題の文芸書と有名人の書いた本、そして教祖の本である。大川隆法のやっていることは、戦後すぐに池田大作が取った方法に倣っているとも言える。
 講談社が戦争加担の罪を問われることを恐れて作ったエスケープ会社である光文社は、講談社が罪を問われなかったために宙に浮いた存在となり、独立的に仕事をしていかねばならなかったという。そして新書によって戦後のベストセラー・メーカーとなる。その躍進ぶりは恐ろしいほどのものがある。最初のヒット作である波多野勤子『少年期』は、編集長の唱える創造的商品造りの精神に則り、編集者が企画を立てた一冊である。編集者が、著者が一方的に書き上げるのを待つのではなく、積極的にコンテンツを作り上げていくという方針である。『バカの壁』でも編集者が作った本と騒がれたが、この手法は、四十年来、出版業界ではポピュラーな方法なのである。光文社から分れて新しい新書を立ち上げたごま書房が、この手法を多用したということだが、ごま書房が倒産した今も、この手法はこのように生き延びている。
 また、新聞小説がよく売れるというのは戦前からある傾向だが、映画化された文芸作品、テレビ化された文芸作品が売れるのも戦後のごく普通の傾向と言える。翻訳作品はおしなべてベストセラーに入りにくかったが、映画の原作だけはよく売れるのである。海音寺潮五郎は、せいぜい数万しか売れなかった自分の作品が、テレビドラマになった途端、文庫版上中下やハードカバーの上下巻などをそれぞれ一冊として勘定すれば、軽くミリオンセラーになったのを見て、読書界に絶望したという。今の著者ならメディアミックスを歓びこそすれ、絶望したりはしないだろう。
 ノヴェライゼーションや原作が売れるのは、いったいどういうわけだろうか。映画を見てその原作を読みたいと思うことはほとんどないのでわからない。『ロード・オブ・ザ・リング』を見て、続きが知りたいから原作を読むというのは理解できる行動だが、『冬のソナタ』のノヴェライズが売れるのはわからない。活字の形による追体験とは読者にとってどういう意味を持つのだろうか。話が逸れてしまうので追究はしないが、何か安心感があるのだろうと推察される。とりあえず、そういうものは売れるのである。
 有名人の書いた本が売れるのは、それも手記・手紙の類が売れるのは、もうこれはずっとそうなのだろう。それも感動的なら感動的なほど良いのだ。まともな本では戦後最初のベストセラーと言っても良い尾崎秀実『愛情は降る星のごとく』は獄中からの手紙である。『蒼い時』がミリオンセラーになるのも理の当然というべきか。『窓ぎわのトットちゃん』は小説なのだろうが、有名人の自伝だから、手記の一種と見做しても良いだろう。これは戦後最大のベストセラーであり、ハリポタも全冊でならこれを抜くことが出来るが、一冊では、まだかなわない。抜かれる日も間近いとは言うけれど。
 また、ものすごく大々的な宣伝をしたものは売れる。シドニー・シェルダンである。宣伝の効果というのはあるんだ……と深く納得したが、広告宣伝費を賄うぐらい売れないとならないから、難しいものがある。当たればいいけど、当たらないと、莫大な借金でどうにもならない。それに、宣伝費を使うと残るものが少ないというのでも困る。一度名を売れば継続的に売れるだろうという考えはある程度正しいから、とにかく一時期に、インパクトのある宣伝をすれば、人は買うのである。
『ソフィーの世界』などもNHKが社を上げて売りにかかったようなところがあり、それでミリオンセラーを記録している。テレビ番組で取りあげ、さらにさまざまなところで大々的に宣伝する。こうして造られたベストセラーである。テレビの力はすさまじい。『ハリ・ポタ』も。初めは書店のベストセラーに適用されるワゴン売りで、そして映画とのメディアミックスによる広告で、さらにその他の関連グッズなどとのタイアップなど、総合的に宣伝効果で売ったものと言えるだろう。広告の専門家の意見を聞きたいものだ。
 しかし、おもしろいことに、テレビ書評を見る人で、取りあげられた本を買う人の割合は、新聞書評を見てその本を買う人よりも少ないのである。これはどのように考えるべきことなのか。テレビ書評のようなものを見る人は、まあ読書家であって、テレビの原作本を買う人とはかなり、異なる層なのではないかということが考えられる。そしてそのような読書家は活字を信用し、電波などは信用しない……いくら何でも古い見方のような気がするが、可能性としてはそんなことが考えられるように思う。
 また芥川賞をめぐる騒動というのは、石原慎太郎『太陽の季節』以来の長い歴史がある。最近では京大生の平野啓一郎、古いところでは庄司薫、村上龍とか騒がれたものだ。凋落の一途をたどっている文芸界だって、話題になるのはこんなときぐらいしかないから、必死である。芥川賞を若い女の子にあげたってかまうことはない、もともと人気はあるんだし、いいんじゃないか。そんな感覚ではないか。だいたい受賞者の全員がちゃんとした作家として残っていくとうわけでもないのだから。問題は、テレビニュースでさえ発表が行われる芥川賞・直木賞について、一般大衆が考え違いをすることだが、今回のような場合、平野啓一郎の時ほど私は気にかけていない。というのも、二人の作家が日常を描いているからで、幻想小説を書いているわけではないからだろう。今どきの普通の小説はこんなものだと私は思っているということか。だが、幻想小説はこんなものではない、誤解を受けるのはいやだと考えているに違いない。いやはや勝手なものだ。
 まあこのように、だいたいのところ、大衆の動き方というのは決まっているものだ。ベストセラー・リストを見ていると、『幻想文学』の読者なら思わず溜息が出るのではあるまいか。しかし、何にせよ、本の世界はベストセラーだけで成り立っているわけではない。そういうものばかりを出せれば、こんな出版不況にはならないわけで、ベストセラーを狙って失敗した死屍累々、また普通に採算が取れれば良い本(これが大多数)、そして端からそんなものとは関係のない『幻想文学』などの世界(これも結構多い)もあって、これほどの新刊がひしめくことになるのである。
           
 ベストセラーの本というのは、どうして買われたのかだいたい理由が見える。そして売れ出すと、そんなに人気があるなら……という理由で買う人が増えるから、ミリオンセラーになる理屈もわかる。近年、ミリオンセラーになる本が増えたのは、そういう、迎合的な読者が増えたせいである。東浩紀は無意識にこういう一斉行動を取る人々の世界を昆虫社会のよう、と言っていたような気がするが(肉声での話なので不確か)、読書界でもその傾向は変わることがない。本の大衆化はもはや完了し、書籍を特殊な消費財とみなすことは、もはやいかにしても無理だということだ。
 だから、もはや、書店の棚揃えを個性あるものにしたって書店は生き延びることは出来ないのだ。何の目的もなくふらっと本屋に入って、そこで本との出会いを楽しむような、余裕のある読書をする人の密度はあまりにも希薄になってしまったので、それでは書店は生きられない。何かしらの傾向を持った読者というものも、こんなにも多様性が増した社会では、やはり密度が薄い。文学が好き、と言うだけで括れた四半世紀前とは訳が違うのである。また、これほどまで新刊の点数が増えては、文学好きの読者のための棚もどう作ったらいいものやら。そのセレクションのユニークさで喜ぶのは、私のような専門家だけだろう。
 だいたい、地方にはある程度の品揃えの本屋さえ昔からなかったわけだが、今では売れる本の傾向が画一化したおかげで、むしろ田舎の書店と、例えば浦和のような都市の小書店とは差がなくなっている。それはどうにもならないことだと思う。私のような専門家は、とにかく大書店に行くしかなく、そして、本をよく買う、マニア的な人々も好みは一定だから、自分の趣味の合う本屋を見つけるよりも、大書店に行った方が早い。これほどまでに坪数の多い書店が林立するようになった現在では、町の小書店は、とにかく売れる実用書とマンガ・雑誌とベストセラーの置き場として、コンビニのように使われるほかない。それでは経営が苦しいだろうが、ほかにどうする術もないだろう。小書店には個性的な棚を、などというタワゴトはまったくやめていただきたいものだ。それが可能なのは、大都市で、超専門的な(しかし一定の需要が見込まれる)本を集める、というような方向においてしかないだろう。しかしこれも苦しい。そういう失敗例もたくさん見てきているから。
                     
 さて、私は新刊書をたくさん買う読者なのだが、読書家には本をたくさん買う人が多いはずだ。この十年よく聞く言葉に「出たときに買わないとなくなってしまうので、その場で買う」というものがある。おもしろそうだと思う本は、増えているのか減っているのかわからないけれど、以前なら買わなかったようなものまで衝動買いしてしまうということはないのだろうか。
 繰り返すようだが、新刊点数の上昇ぶりは異常である。そのあふれるような本を見て、つい買ってしまう、結局のところ書籍を買う量が増えているとうことはないだろうか。例えば誰か作家のファンで、著作をつい買ってしまうとすると、初版部数が少なくてやってられないからということで刊行点数を増やせば、その分、買わなくても良い本を買うことになってしまう。読者は粗悪品を倍買わされるということになる。しかし、目は慣れるというか、グラデーション的な変化には人間は気づかないものなので、そういうことを自覚していない。私自身でも、そんなことがありそうだ。
 つまり、新刊書が増えているだけ、とにかく従来からよく本を読んでいる層の負担が増したのではないかと私は思っているのである。私自身がそうだからなだけで、何の根拠もないのだが、そんな気がしてならない。本を継続的に買い続けている読者は、出版社に何だか騙されている、そんな気がしてならないのである。(終わり 2004.02.22)

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