Isidora’s Page
水の道標

文学を読む④批評の意義         (2004.06)

 これまで見てきた通り、人は文章をいろいろな風に読む。だが、読むという行為の前には、実際にはさまざまな前提条件がある。
 私たちはまず第一に読める文字になっているものでなければ読めない。そして文字で書かれた言語の知識がなければ読むことができない。ことばの直接的な意味ばかりでなく、慣用的な表現や言い回しを知っていなければきちんとした意味を取ることができない。さらに書かれていることの背景にまったく無知ではやはりうまく読み取ることができないし、読みおおすことができるかどうかもわからない。恋の何たるかを観念的にでも知らなければ、恋愛小説は何だかわからなくてつまらなかろう。
 私たちは訓練を積んで読めるようになる。それは私たちが生きていくこと、体験を通してさまざまな知識や社会性を身につけていくこととパラレルである。読むこと自体が社会的な行為なのである。
 しかし一方では、読むことはまったく個人的なことでもある。読み方はさまざまなのである。例えば、文学を読むということは、いろいろな先行作品を意識する(あるいは無意識のうちに想起する)ということでもある。あたかも初めて小説を読むかのように、その作品だけを純粋に読むなどということは、不可能である。意識/無意識のうちにある先行作品が、誰でも同じというわけではないだろう。私たちはある蓄積の果てにその作品にたどり着き、今、読んでいる。それは完全に個別的な行為であって、まったく同じように本を読んできた人間はいない。指紋が異なるように、読書体験は個人を証すものなのである。
 以前、その本を読んだことすら忘れてしまってもその本を読んだと言えるのか、と問われたことがあった。だが、たとえ読んだ記憶も本の名前も忘れたにせよ、読んだことがあるなら確かに読んだと言えるだろう。それはもう体験として消化されてしまったのである。たくさんのご飯を食べたけれども、食べたことを忘れてしまっても、食べたと言えるのだろうか。そんなことを訊く人はいないだろう。本人は気づいていなくとも、それはエネルギーとして使われたり、脂肪となってあなたのからだに蓄積されたりしたのだ。一旦は蓄積された脂肪も、代謝によって既に燃えてしまったかもしれない。だが、そうやって人間一人一人は肉体を崩す(というのは体型が崩れることではなくて、ハエ人間みたいにどろどろに溶けてしまうということ)ことなく、成長し、老化し、こうして今ここにいる。読書にも同じことが言える。
 私という個人一人の中にあっても、読むという行為はその一回一回が個別の行為である。例えば同じ本を続けて二度目に読むとき、読む前と読んだ後の私は同じではないのだから、その私はもはや前の私と同じように読むことは決してできないのだ。だが、思えばそれは、ルーティンと見えるこの毎日も、本当のところは日々異なっているのと同じことだ。毎日が「似たようなもの」なら、逆に私は、そこに共通する核(私にとっての本質)を見つけられるだろうし、また差異(私にとっての意義)を意識できる。読書体験というものは、それと同じようなものととらえることができると、私は思う。

 体験を共有するというのは、考えてみると不思議な言葉だ。時間と場所を同じくして同じ体験をしたとしても、体験を共有したことにはならない。同じように体験を味わい、感じるのでなければ、共有されたという言葉がにつかわしい感じはしない。ジェットコースターに並んで乗ったとしても、一人は恐怖に打ち震えつつ身をすくませて悲鳴を上げ、一人はバンザイしながら歓声を上げていたのなら、体験を共有したどころではないだろう。体験を共有するという言葉には、もっと親密な、精神的な交流を、大げさに言うならば魂のつながりをすら感じさせるような何かがある。少なくとも、私にはそのように思える。だが、そんな風に考えてしまうと、体験を共有することはひどく難しいことのように思える。少なくとも日常的には。だが、それを求める人は多いのではあるまいか。戦争のような極限状況下では比較的容易にそれが起こり得そうで、そしてそのために戦争映画は頻繁に作られるのではないだろうか。あるいはパニックものとか終末ものとか、何か危機的状況を描くものも同然である。
 誰かと同じ本を読むこともまた、体験の共有ということに似ている。体験を共有しない可能性が高そうだという意味で似ているのだ。同じ本を読んでも読み方はさまざまだということは、もう繰り返すまでもあるまい。一方では、「体験を共有した」と言えるような現象を引き起しやすい本というものが確かにあると思う。例えば、「感動物です」「泣けました」というような言葉で単純に括れるような、わかりやすい作品である。誰が読んでも、内容としてはそのようにしか読めない、そこから何らかの感動を得るとしたらこういうパターンで、何の感興も与えない場合にもその理由に一定の範囲がある、というような話である。ハーレクインロマンスの一部の作品などはその典型と言えようか。
 ともあれ、本を読むということが、たいていの場合、体験を共有していないのだとしたら、その本について語ることにはどんな意味があるのか? みんなが好き勝手なことを言い合うだけではないのか? この疑問は一見するともっともらしいが、極端に走り過ぎである。
 体験を共有してはいなくても、似たような体験をしてきた仲間どうし、話が通じるということはあるにちがいない。好き勝手なことを言い合うにしても、共通する土台が皆無というわけではないのだ。とはいえ通じる話だけで納得しあっているのでは、コミュニケーションの不全感はぬぐえまい。
 また、もしも本を読むということが、体験を共有するようななにものかであるならば、というよりも体験を共有するとしか言いようのないようなものであるならば、多くの言葉は要らない。あの本を読んだよ、という一言で終わるだろう。目配せだけで暗黙の了解が成り立つ世界なら、言葉はいらない。
 この両様のあいだに、批評・評論の機能が果たされたるべき余地があるのだ。
 批評・評論は、共通の体験をしてはいるが、体験を共有しているとは言えない、という状況下でこそ、為される価値がある。つまり、個々の体験の中にあって共通するもの、差異をはらむもの、その可能性が並べられることによって、新たな認識の地平が開かれるということ、このことにこそ批評・評論の価値があり、自らの読みを開陳する行為の根源的な意味があるのである。

 以前、友人から、批評というのは先入観を植えつけて人を誘導するという意味で、一種のペテンではないか、というようなことを言われたことがある。そういう面がないではない。批評家がペテン師であるとしたら、自分自身が詐欺師だということを知らずに詐欺を行なってしまう人だ。あるいは自分はすばらしいものを勧めているのだと信じて勧誘するカルトの信者のようなものか。自分自身が幻想的な制度の中にどっぷりとはまりこんでいるために、ペテンの片棒を担いでいることに気づかないのである。こうした制度の枷は、どんな形であるにせよ、決してなくなってしまうということはないので、人は何らかの制度の維持の片棒を担ぐものである。だが、知らず知らずのうちにそれをしてしまう人々に対して、意識的に制度を維持しようとして論陣を張る者がペテン師であるとは限らない。手の内をさらして、なおかつ評論するのなら、それをペテンとは言えない。あるイデオロギーの信奉者だとは言えるだろうが。評論家は読者を騙したいわけではない。むしろ、騙されているかもしれない者の目を見開かせたいのである。余計なお世話であるかもしれないが。また時としてそれはある特殊なイデオロギーの地平へと読者を引きずり込んで読者の目を閉じることにもなりかねないのであるが、本人のつもりとしてはそうなのである。評論・批評をするということは、一方向にしか向いていない読者を、別の方向にも振り向かせようとすることだ。ほら、ここにも道があるよ、と。読者は一筋道を歩んできたけれども、批評によって、そこがたくさんの枝道を持つ森であることに、改めて気づかされるのである。
 こんな話もあった。一月末ごろのことである。誕生日祝いに何でも御馳走してくれると太っ腹な藪下くんが言うので、甘いものをたくさんいただく予定で、銀座まで出掛けた。
 有楽町の駅前には、東京国際フォーラムという変な建物があって、その構内を藪下くんと歩いていたのである。「まったく無駄だよねー」と、建築家である彼はこの巨大な建物の、空間と資材をぜいたくに使ったカフェ部分を指して言う。「使われてないところもたくさんあるんだぜ」とぶつぶつ言っている。ところが突然、「ほら、きれいだろう」と言うのである。何がきれいなのか、今まで文句を言っていたではないか、と思っていると、「あのコンクリートの断面はさ、世界の最先端の技術の結晶なんだよね」と、天井を示す。ピロティーの、三階分は上にあるかと思われる高い天井である。ここからでは、どこまですごいのかは、わからない。でも、それが指し示された瞬間に、確かになめらかだ、と思い、なにがしかの感動を私は味わったのである。
 批評の意義というのは、こういうものではないかと思う。見えなかったものを見えるようにすること。時として、それは幸福をもたらさないかも知れないが、それでも一つの衝撃ではあろう。それを私は愛するのだ。
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