Isidora’s Page
水の道標

文学を読む◆始めに◆         (2004.04)

 これは、一月のとある日の、篠田真由美さんとの会話に始まった、一つの探究である。テーマが大きいから、本気で書こうと思うと時間を取られて仕方がないので、メモの集積のような感じになった。  その時の会話のテーマは、記憶とはどのようなものか、ということだった(記憶についての概説「記憶とは何か」のページへ)。篠田さんの読者なら御存じだろうが、〈建築探偵シリーズ〉には、写真的な記憶が可能な蒼という青年が登場する。だが、篠田さんは蒼タイプではなく、どちらかというと言語的なものの方の記憶に優れている。暗誦などはたいへんに得意で、やはり建築探偵の中に、すらすらと短歌を口にのぼせたりする女性などが登場したりすると、私は、ああ、篠田さんだなあと思う。極端な言い方をすれば、篠田さんにとって、言語はまず音であるようだ。彼女にとっては、詩が好きで専門だったくせに、まともな暗誦が全然できない私は、理解の外である。
 さて、二人で話していると、お互いが抱く「記憶」というもののイメージが著しく違うということに驚かざるを得なかった。私は多くの出来事記憶を映像で覚えているが、篠田さんは多くの場合、映像ではなく、言葉で覚えているのだという。ただし、マンガ好きの篠田さんは、マンガなら頭の中で完全に再現できるものがあると言う。では、小説はどのように覚えているのか、と問うてみると、ストーリーは、言語的なプロットとして思い出せるか思い出せないかのどちらかであり、印象的な言葉、フレーズなどはそのまま覚えている、ということだった。果たして小説を書いたり読んだりするときに、彼女の頭の中で起こっているのはどのようなことか、いたく興味をそそられた。
 篠田さんとのやりとりの後、有里さんとのメールでも記憶の話題を持ちだした。そして小説をどう読んでいるかという話になったのだが、有里さんの回答が意想外だったので、もっといろいろな人たちに話を聞いてみたいと思い、若干の人々にアンケートを取らせてもらった。
 アンケートに協力して下さったのは、次の方々である。厚くお礼申し上げる。
 有里朱美さん、石井啓一郎さん、内田みどりさん、大久保譲さん、瀬戸かよこさん、高谷理玖さん、高柳かよ子さん、中島晶也さん、西村有望さん、ニムさん、範国将秀さん、藤田知浩さん、藪下明博さん、山田史生さん、横山茂雄さん。
 研究者、批評家や読書家ばかりなので、偏ったものではあろうが、幅の最大値は得られたのではないかと思う。
 以前から、小説を読むときに起きていることは何か、小説を読むとはどういうことかを考えてきた。批評家ともあろうものが、読んでいる自分を意識しないで読むことができるだろうか。だから、私自身についてはよく知っていて、それがほかの人とはたぶん同じではないということはわかるのだが、こんなふうに違うのだとは思っていなかった。
 この結果を踏まえて、文学を読むというのはどういうことなのかを、再考してみたい。同時に、批評についても何らかの見解を示したいと思う。
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★【水の道標】では、背景に有里さんの壁紙集【千代紙つづり】から何点か使わせていただいております★