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水の道標

◆書評のために読む◆


 私が書評をするために読む場合は、批評とは違って一度ということが多い。現実に書くときには部分的には読み返すが、もう一度通読するということはほとんどない。また、私の場合は、書評をすることを前提にして本を読むことが圧倒的に多いので、漫然と楽しみのために読む、などということが滅多にない。もう既にそれが習い性になっていることもあって、自分が批評家だという自意識をまったく持たずに読むことはできないようだ。そういう意識は邪魔で、迷惑なのだが、あまりにも長い間、仕事中心の読書をしてきたので、なかなか動かしがたい。
 さて、読んでいるときに勝手に頭の中に起きるイメージとは別に、何をやっているのかということをちょっと説明してみようと思う。対象は小説である。詩・文芸批評、その他の人文書はまた別。
 30秒で読めるので、横田順彌の「ざしき童子のはなし」というのを取り上げる。宮澤賢治のパロディだが、パチンコ店に出没するパチンコ童子、麻雀仲間が三人しかいない時になぜか四人になっているという麻雀童子の話。それなりにちゃんとしたパロディになっているが、アホらしいので、読んだらそれきりのお話である。文体摸写、というのもバカらしいほど同じなのだが、例えば「機械の釘が、いよいよせまく見えるきり」などというパロディの仕方が軽妙だと言える。一方、ジャン大生のところにお母さんが出て来て、一人増えたのがざしきぼっこなのだと説明するのは、奇妙だと思う。雀荘ではなくて誰かの家でやっているのか? ジャン大生らしからぬ行動ではないだろうか? オチは「そしてあとの三人が、頭の変な大学生です。」というものだが、これもピリッとしない。これでは笑えない。冒頭の「ぼくらの方の、ざしき童子のはなしです」というのが、そのままでギャグになってしまうのとは逆に、作品をつまらなくしている。
 また、横田順彌にしては大人しいとか、ジャン大生という風俗はマイナーなものになって今の若い人にはピンと来ないのではないかとか、読みながらこれだけの判断をしていて、読み終えたときには、そうしたことからこの作品の私の評価はおおむね定まっている。まあ評価も何もないのだが。
 あとで書かれた年代などをチェックして、初期の作品(1967・22歳)だからやっぱり大人しいのだ、でもまあ軽妙ではある、などと思う。
 意識はしていないが、タイトルを見て、この作品を読み始める前にパロディだということを考えているし、賢治の作品の感触を思い出してもいる。それを重ねあわせながら読むというよりは、比較している。座敷を掃く音のするエピソードは、私には明るいものなので、開店前のパチンコ店というのは似付かわしいと感じているし、一人多い話は、どこか薄寒いので、それとジャン大生の雰囲気はちょっと違うなと思っていたりするのだ。今、分析してそう思うのではなく、同時に考えていて、そういうことは、このような文章化された形ではなく、印象として頭の中にある
 長い作品なら長い作品で、随所でこういうことをやっている。文章の吟味、作品の展開のなめらかさ、また、似たようなイメージやテーマや手法の作品、また作者の他の作品などをいろいろなところで思い出したりする。作者は何を考えたのかとか、ひっかかりながら先へ行くと、なるほどこう来るか、などという場合もある。そうしたもろもろのことにはっきりと意識が向くと、読書は中断されることもある。また脳内の映像などは当然、一瞬にして消える。中断されない場合もあるが、たぶんその間の一行二行は注意がなおざりになっているに違いない。読んでいて、これがこの作品のキモだとか、ここのところで書ける、というふうに思うこともある。
 時には三分の一から半分読んだだけで、頭の中に書評ができあがってしまうこともある。最後まで読んで崩れる場合もあるし、若干の修正で済む場合もある。途中で評価が出るのは、きわめて素晴しいか、箸にも棒にもかからないかのどちらかである。そうしたことは誰にも覚えがあるのではないだろうか。読書を中断できる太っ腹な読者なら、後者の場合は本をすっぽり投げているだろう。私は、もしかするとどこかに見どころがあるかもしれないし、買ったからにはもったいない……などと考えてしまう小心者なので、放り出すことができないが。前者の場合は、後半になったら失速、またラストはひどいという場合も多々あり、どうなるかは、本当のところはわからない。読み終えてがっかりする、という一般にもよくある反応は、そういうパターンであろう。
 また、たとえそうでなくとも、三分の一ほどは強く集中しても、残りはもう少しぼんやりと読むことも多い。だいたいのところは見えてしまうからで、あとはそれを確認しながら読んでいくという感じ。つまり文章が作品の途中からいきなり上手くなったりすごくなったりするということはほとんど考えられないので、文体のことは意識からはずれるし、テーマだとか内容だって手の内はだいたい見えるから、まあどうでもよくなっていく。途中から俄然すごくなる作品は多くはない。そうなるかもしれないので、予断を持たずに最後まで読み切ろうと努力するわけだが、努力したくなくなる時も多いし、努力できない場合もままある。また、稀に、ぼんやりモードに入ったあとで、展開が急に思ってもみなかった方向へ行き、驚く、ということがあり、こういう作品については、評価が高くなりがちである。ぼんやりの度合が高くなっていたせいかもしれないので、そのような場合は、再度吟味が必要なこともある。
 また、特に気をつけていなくても、まずい文章には必ず引っ掛かってしまうし、前後で矛盾しているところやご都合主義かと思われるようなところ、論理的破綻のようなものが見えるところもまた、気にかかってならないので、まるであら探しをしながら読んでいるような気分になることもある。実際、あらを探しながら読んでいるのだろう。自分の文章に対してもやってしまうので、手元に長く置いておくと、そのままお蔵入りということが実にしばしば起きる。今回は、かなりラフに出している。このように書いているということ自体が、読むことの意味や、批評とは何かを考える手助けになるだろうと思うからだ。
 さて、横田順彌のこの小品について、もう一言。
 私は賢治の「ざしき童子のはなし」を知っていたが、もしも知らない人が、横順の作品を読んだらどうなるのか。横順は、あくまでも原典を読んでから、自分の作品が読まれるということを意識してギャグを書いているのだが、そのことを知らずに読む人もいるのではないか。そのような場合、これはユニークなアイディアで、おもしろい文章で書かれた作品、と思うのだろうか? そんなバカなことは起こりようがない、とあなたは思うだろうか。だが、現実にそんなことはしばしば起きる。京極夏彦の『覘き小平次』の元ネタを知らないまま、ピントずれのほめ方をしている古参の評論家がいた。ま、現実はそんなものだ。私だってすべての小説を読んでいるわけではないし、完全な知識を持っているわけでもないので、パスティーシュだと気づかないままやり過ごした経験があるし、また、有名なことわざを使った遊びに気づかずに批評をしてしまったこともある。こうしたアイディアがすごいとか、ストーリーがすごいというようなレヴェルでなら、先行作品に気づかないことは、無数にあるはずなのだ。それを見極めることは果たしてできるのだろうか。恐らくはできないだろう。
 あるいは、この文体からして何かのパロディなんじゃないかと気づくだろうか? 願わくば自分がそのような鋭敏さを持っていて欲しいものだが、現実は厳しいように思う。

 ついでに、小説以外のものも、どんな風に読んでいるのか、ちょっと示してみる。書評用の読み方ではない。私の普通状態の時の読み方。

★文芸批評・研究★
 小説は小説から生まれると言う。文芸批評もまたしかり。知識の間違っているところ、論理のあいまいなところ、立脚点のはっきりしないところなどをいちいち指摘し、反論を立てながら読む。それを書き留め、その不足なところを調査して補えば、そのまま私の批評になるだろう。そんな面倒なことはしたくないので、頭の中でただぶつぶつ言っているだけである。だから、啓発的な批評と、適度に間の抜けている批評とは、遅々として進まない。どちらも書かれていることが思考を誘発するからである。きちんとまとまっていてそつが無く、多少の新奇なアイディアが力強い説得力で述べられている、というような、ある意味で優れたものは、読んだらそれきりで、さらなる批評を誘発しない。従って読むときも大人しく黙って読む。あまりにもバカな批評は、短いもの以外は読まない。
 私はどんな研究書を読んでも、だいたいの場合、書き手が大前提としているところを疑ってしまう。疑いの度合は千差万別で、ほとんど感じないものもあれば、とても強く感じるものもある。自分の書いたものが常に気に入らないのはそのせいで、最初に立っているところが本当に信頼の出来るところだとはとても思えない。蟻の一穴で崩れそうなことを前提としてしまっているという感覚から逃れられないのである。
 理解しながら読むのとは別に、文芸批評だろうが何だろうが、描写的なところはそのままのイメージで湧くし、そうでない観念的なところでは、単語のイメージが閃いては消えるというような感じ。さらに、観念を論理的に扱った一連の文章にも何となくイメージが湧く場合がある。
 また、知り合いが書いたものなら、その人を常に思い浮かべながら読む。その人が語っているみたいに、というのはちょっと違うのだけれど、シリアスになったときのその人の雰囲気を思い浮かべる(あるいは思い浮かべたような気分になる)。わざわざそうするのではなく、そうなるのである。
 その他の人文書も多くの場合、文芸批評に準ずる。ただやはり、歴史書とか文化人類学関係の本などは専門ではないので、素直に感心していることが多い。もっとも哲学書や社会批評の類は、文芸批評と変わらないが。


★詩★
 詩は、10歳ぐらいの頃から、つまり人生のほとんどの時間を通じて親しんできた形式であり、私にはとても身近な文学形式である。詩の批評をしていたのは若い頃だけ。今はこの義務から解放された読み方しかしない。
 私は朗読が好きではない。音になったものは頭の中にこびりつくので……自分の声で詩を覚えているなどという状況は堪え難い。他人の声で覚えているのも嫌だが。詩人の声で覚えているのもどうかと思う。20年くらい前のことだが、自主製作フィルムの上映会などによく行っていて、その時に詩人の作ったフィルム特集というのがあった。ねじめ正一が素っ裸(あるい半裸)で便器にすわり、怒濤のように朗読する、というものがあり、会場内からは失笑と「よくやる」などの声が聞こえた(詩人なので社会が狭く、知り合いなどが来ていたのであろう)。で、ねじめの詩を読むと、それを思い出し、私は読む気が半減する。さらに、自分で黙読するときも、その読み方で読んでしまう。朗読おそるべし。
 しかし、作った詩は必ず朗読しなさい、という不文律がある。声に出さないと、リズムが生きているかどうかわからないのだろう。確かにリズムは大事だ。詩には何らかの音楽性があった方が魅力的に見える。従って、読むときには黙読でも、音楽的な調子を確かめている。ただし、音読を頭の中でする感じなので、つまりある意味では演劇的に読むので、黙読の声が誰かの声(とにかく実在の誰か。アナウンサーなどの、どこかで聴いた声だ)になってしまうことがあり、途端に読む気が失せる。何かの声を感じるが決して現実の声ではないというところが良いのだ。このような音韻的なもののほかに、さらに映像的なものを思い浮べ、何らかの情緒を感じる。
 これが私の、あくまでも個人的な詩の読み方である。深い意味を取ることはほとんどしない。詩の場合には、小説と違って多くは短いため、作者の込めた意味をくみ取るためには、その詩の背景を知らなければどうにもならないからである。作者を無視してかかるのなら、表面的な意味を取る必要すらないように思う。深読みも、やっておもしろい時はすればよい。ただ、私の場合は、下手にそれを始めると、解析的になり、詩を分析しようとし始めたりする。困ったものである。従って、深読みを能動的にしようと思うことはない。そんな風に読んでも、インパクトのあるものはある。きわめて強烈にあることもある。そのような場合、本当のところ、自分でも何を読んでいるのだかしれない。いちばん近い言葉は「詩を生きている」というものだろうか。
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