創作・翻訳編
創 作
『アクアリウムの夜』長篇小説。
高校二年生の男女が現実に生じた亀裂に飲み込まれていくさまを、一年の季節の移ろいの中で描く、抒情的な恐怖小説。
春の土曜日の昼下がり、主人公の広田(語り手の「ぼく」)は親友の高橋に誘われ、カメラ・オブスキュラという光学的な見世物を見に行く。その映像に映し出された水族館には、あるはずのない地下への階段が存在した。二人は気にかけながらも、一場の夢としてそれを忘れようとする。ところが恋人の良子に誘われて試してみたこっくりさんで水族館のことを聞いてみると、思いもかけない答えが返る。「チカニハイルナタレカヒトリハシヌ」……。
こうして三人の前に、暝い世界への扉が開く。やがて霊界ラジオに耳を傾けるようになった高橋は精神に変調を来し、良子も水族館の建設に関わる奇妙な話を聞かされて脅えるようになる。広田は図書館で新聞の古い切り抜きを見つけ、水族館とも関わりのあった新興宗教の教祖が、カメラ・オブスキュラの案内人と瓜二つであることに驚愕するのだった……。
これで三分の一程度の梗概だが、こんな要約を読んでも本当は仕方がないので、ぜひとも原著を読んでほしい。
この作品の最大の魅力は、清新な語り口の青春小説と、異界の顕現がもたらす恐怖と不安の表現とがみごとに組みあわされ、切ないうえにも切ない物語を作り上げているということだろう。この作品においては、天からまばゆく落ちてくる金色の光の中に闇が同時に見えてしまうように、日差しと翳りとが絶妙にからみあっている。私たちは日の光の中にいると思っているけれども、実はいつでも影の中にもいるのだということを、感覚的に表現し得ているのである。
その影の世界の表現に関して、個人的には、骨董店の人形の前から始まる少女二人のオカルティックな世界への参入の物語(作品の中ではサイド・エピソードになる)に衝撃を受けた。『アクアリウムの夜』と言って真先に思い出すのは、その雨のシーンである。
私は、広田と高橋の冒頭の掛け合いを読んだだけで、この先を読み進める気力が萎えることがある。この二人がどうなってしまうのかもうわかりすぎるほどにわかっていて、苦しくなってしまうから。光の中の闇、春の中に既に胚胎されている冬。これから広田が味わわねばならない悲哀を思い、私はページを繰る手を止める。でも結局はまた読み始めるのだろう。この物語を共に生きるために。
*別ページの関連する文章にリンクします。
●関連する短文(石堂藍)●
●自作解説「思春期をめぐる物語」●
●「アクアリウム」論(石堂藍)●
●りく坊の稲生めも・文庫化について●
『アムネジア』
長篇小説。
島津伶は大阪で小さな編集プロダクションに勤務する20代の青年で、画廊に勤める理絵という恋人と交際している。彼は目下華僑系の会社の社史の編纂を手がけているが、路上で一人の老人が亡くなったが、彼が戸籍上は数十年前から存在していなかったという新聞記事を目にする。その老人・徳部弘之と同じ名前が社史の中に現れていた上に、会社からはその名前を含む部分を削って欲しいという依頼が届いていた。すべては無関連かも知れないが、奇妙な一致に引っ掛かった伶は、理絵から情報をもらった関西日報というタブロイド紙に連絡をとってみた。すると澤本という記者が直接に会って話したがった。彼が伶に語りだしたのは、徳部は闇金融に関わって消されたのかも知れないという剣呑な物語であった。澤本に引きずられるように徳部の素性に深入りしていく伶だったが……。
これで30ページぐらい。時間が最も顕著だが、いろいろなことが精緻に構築されているために、あらすじがうまくいかないようになっている。いずれにせよ、『アクアリウム』同様に、いやそれ以上に要約には意味がない。読んで何かを感じるための小説であって、ストーリーを楽しむための小説ではない。とはいえ複雑なプロットを読み解くことそれ自体は、それなりの楽しみを与えてくれるだろう。
この小説が本ページでは以前から予告してきた、「記憶の書」という独立可能な小説部分を含む作品であり、この長篇全体を『記憶の書』と稲生平太郎は呼んできた。しかし角川書店の編集者はタイトルを変えたほうが良いという意見でこうなった。いまだに私の中ではこれは『記憶の書』なのだが。
この短篇も驚くべきものではあったが、この短い長篇(ほとんど中篇ぐらい)も恐ろしい作品である。私はこの小説を、何とかまともに論評したいと思っているが、今のところ形になっていない。
この作品はきわめて風変わりで、たくさんの矛盾点があり、時にはそれをわかりやすく著者が指摘している場合もあるが、もちろん隠されていることも多い。私はこの作品の第一読者で、ほぼ完成状態の時に何度か読んで、普通に読んで矛盾があるところ、おかしいところを指摘するという作業をした。その時点ではなお見落としは多々あったかと思うが、そういう作業を経ている作品だということを理解していただきたい。もちろん編集者にしてもちゃんとした人で、昨今増えた素人と変わらないようなしろものではなく、何度もこの作品について検討を加え、動かしようもないということに落ち着いてから本の形にしている。敢えてこのようなことを書いておくのは、『アクアリウム』の時にも、どこにもミステリとは書いていないのに、ミステリとして破綻しているという意見を述べる人もいたからで、今回は「幻想ミステリ」などと銘打たれているからには、よりそう思われる(伏線がないじゃないかとか、時間が変じゃないかとか)可能性も高いと思うからである。
まあそんなふうにしか読めない読者はこの作品とは縁がないのだとは思うものの、つまらぬ指摘をされるのは業腹なので書いておく。
●本作品についての稲生平太郎の発言集●
●りく坊の稲生めも●
●書評集=笛寝さん、NAOYAXさんにご提供いただきました●
●『アムネジア』論by石堂藍●*PDFで開きますのでご注意下さい★水の道標でも読めます★
翻 訳
ローレンス・ライト『悪魔を思い出す娘たち』〈ポール・イングラム事件〉として知られる、性的虐待事件のドキュメンタリー。現実にはなかった幼児期の性的虐待の記憶を思い出す〈虚偽記憶症候群〉と悪魔崇拝妄想がからみあった事件であり、その全貌は、ホラー・ノヴェルよりもホラーだ。谷澤君の稲生平太郎論に詳しい。そこから関連ページへも行ける。
●関連する短文(石堂藍)●
マーヴィン・ピーク『行方不明のヘンテコなおじさんからボクがもらった手紙』
「ほら男爵の冒険」風のほら話の絵本。原書にある「遊び」を再現するべく手書き文字が使われているが、この書き文字は横山茂雄自身の手になる。東雅夫は「ほほえましい」と評していたけれども、私は、このクセ字は読者には読めないのでは、と不安を感じている。★見本のページへ★
ヘレア・ベロック『子供のための教訓詩集』
英国の有名な詩人のナンセンス詩集。素人のへんてこりんな絵も見どころの一つ。
世の中には知られざる快挙というものがある。明らかにこれもその一つ。
まず、この作品は、英国では非常に有名で、愛好者が多い。にもかかわらず、日本では知られていない。
なぜなら、日本ではナンセンスなものへの理解が薄く、ばかばかしいものをばかばかしいままに楽しむ余裕もないから、ベロックのようにばからしいものを見せられると、どうしたらいいか困ってしまうからである。だから、日本にはベロックのファンが多くない。日本の〈有名人〉にはきっとほとんどベロック・ファンはいないのだろう。
さらに、翻訳が難しい(というか原理的には不可能な感じ)。英語の達者な佐々木徹先生にも「えっ、これを翻訳するの?!」と驚かれたというから、相当なものだ。
日本では、どうあがいても出版されそうもない本の一つだ。しかも翻訳が困難。
そんなものが翻訳され、海外の判型と同じ形で出版されたのだ。これを快挙と言わずして何と言おう。しかし、知られていない。
刊行後に、南條竹則さんも感心していたというほどで、出来の方は保証できるし、今後、きっと稀少価値も出るだろう。
●理玖の稲生めも●
マーガニタ・ラスキ『ヴィクトリア朝の寝椅子』
時は1950年代初め。裕福な家の娘メラニーがエグゼクティブと結婚し、お気に入りの新居で快適な生活を送っている。だが、彼女は妊娠後に結核になってしまう。何とか出産まではもったものの、感染の危険を考慮して赤ん坊と接することも許されてはいない辛い日々。ようやく快復の兆しが見えた時、医者は、別の部屋への移動を許可する。そこには、結核診断が降りる直前に購入した、ヴィクトリア朝の寝椅子が置かれていて、メラニーは看護師の手で慎重にその上に寝かされるのだが……目覚めると、メラニーは別の部屋にいた。
誘拐? それとも? 心を乱すメラニーは、自分が相変わらずあの寝椅子の上にいて、しかも大層身体が弱っていることを知る。果たしてメラニーの運命は?……
『不思議な物語』連載の記念すべき第一回で取り上げられた作品である。詳しい解説はここに書かれているので、おまけにPDFをつけちゃおう。翻訳されそうもない、という前提から、ネタバレを気にしない解説になっているので、そういうことを気にする方はご注意ください。
「不思議な物語」第一回(PDF)
「思考・想像力・デジャヴュ――『ヴィクトリア朝の寝椅子』をめぐって」(by石堂藍)
ジョン・メトカーフ『死者の饗宴』
「悪夢のジャック」「ふたりの提督」「煙をあげる脚」「悪い土地」「時限信管」「永代保有」「ブレナーの息子」「死者の饗宴」を収録。(太字が横山訳)
メトカーフの怪奇小説は比較的ストレートな怨念ものから、内容が良くつかめない漠たる怪奇ものまでさまざまだが、〈異様に無気味〉〈解釈は読者任せ〉ということで共通しており、独特の味わいがある。「不思議な物語」で紹介が省かれているものについて触れる。「ふたりの提督」は、分身と入れ替わるというモチーフを扱っているが、平行世界ものとも取れる作品であり、解釈するのが悩ましいような怪作。「死者の饗宴」は母を亡くした思春期の少年が、下僕の男に入れあげて父親と反目するという展開。一種の吸血鬼ものと言えると思うが、父親の妄想とも見える。 個人的には「ブレナーの息子」が気持ち悪くて、インパクト大。 も参照
チャールズ・ウィリアムズ「家のなかの穽」
『ライオンの場所』の断片。「ロンドン郊外の田園地帯に(中略)ひとりのオカルティストの作業によって、ライオン、蛇、蝶、鷲といった〈イデア〉たちが現実世界に召喚される。しかも、これらの〈イデア〉はおのれの物質的複写たる現実世界の存在をとりこみはじめ、現実世界が〈イデア〉界に吸収されるという終末的状況が現出することとなる」(「天の影」より)
翻訳されたのは第十章の前半部分。主人公アンソニーがイデア界と接触する激烈なヴィジョンを含む。
長年待った甲斐があった。翻訳は完成し、訳稿もすべて読ませていただいた。すごく変な小説だった。
ジョン・エイキン、アナ・リティシア・エイキン「怖ろしいものから得られる愉しみについて――断章『バートランド卿』を添えて」(附解題)
『異形のテクスト』の「附論――恐怖の分類学」に一部が引用されているものの翻訳。この論文で恐怖というテーマの18世紀末の状況に興味を持たれた方は一読してみるとおもしろいだろう。「バートランド卿」も良い。
*実はこの解題には、この一文の作者が姉弟いずれかはっきりしないということが書かれている。研究者のあいだでも諸説あり、としか書かれていないので実態はよくわからないのだが、ここで連想せざるを得なかったのが、いわゆるフェミニスティックな視点からの評価の問題である。『不思議な物語』によると、Mrs. Campbell Praedの作品も、彼女にとって重要な位置を占めているオカルティックなものは、フェミニスティックな作業によっては復刻がなされていないという。フェミニストたちにとってはオカルティズムよりも優先する問題があるからだろうが、19世紀末の女性解放運動とオカルティズムとは精神的なつながりがあるのではないかと私は思っている。その道の研究者ではないのでよくはわからないのだが、フェミニストの文学研究者がその点に理解がなく――要するに幻想小説というのは所詮女性文学同様のマイノリティであるから――そうしたものを低いものと見て評価しないということがあるとしたら、うんざりするようなことだと思う。これはジョアナ・ラスの評論 "How to Suppress Woman's Writing" と関わることだが、女だからつまらないものを書いたと言われるのに対抗するために、そうしたものをオミットするかもしれないということだ。「バートランド卿」のような著作物を誰の手に帰すかという問題も、例えばフェミニスティックなバイアスをかけた場合、アナのものではない、ということになるのかもしれない。しかし、この作品を「きわめて重要」と横山さんが述べているように、幻想文学史を考えると、それは大きな貢献ということになり、そうした意識のあるフェミニストが読むと、アナのものとして称揚するという事態になる。
また、この解題で引かれているルーシィ・エイキンの「(「バートランド卿」はアナの)快活で才気に富む想像力とは相容れぬ」という言葉は、19世紀前半に書かれたものであり、そうした女性作家が悩まねばならなかった世間体的な問題と結びついているということがあるかもしれない。研究の実際の状況にはまったく無知なまま当て推量でものを言っているのだが、ともあれ、この解題の補注的記述からそんなことを考えた。
ドーキー・アーカイヴ刊行記念対談
横山茂雄&若島正の編纂により、国書刊行会より全十巻の翻訳叢書が刊行されることになった。両人が、他所では翻訳に恵まれない異色作を五点ずつ選んだ。その作品の紹介。以下ラインナップ
L・P・デイヴィス『虚構の男』/サーバン『人形つくり』
ドナルド・ウェストレイク『さらば、シェヘラザード』/マイクル・ビショップ『誰がスティーヴィ・クライを造ったのか?』
ステファン・テルメソン『ニシンの缶詰の謎』/ロバート・エイクマン『救出の試み』
アイリス・オーウェンズ『アフター・クロード』/チャールズ・ウィリアムズ『ライオンの場所』
シャーリイ・ジャクソン『鳥の巣』/ジョン・メトカーフ『煙をあげる脚』
機械的唯物論者は旧支配者たちを夢見る
ウエルベックのラヴクラフト本、高橋洋監督の映画『霊的ボリシェヴィキ』などをネタに、ラヴクラフト/クトゥルー神について語り合う。