第3回 「闇」
へーベルハウス/2001年4月19日(木)朝日新聞朝刊28面
家は広告の限界と関係がある。広告史の中で、もっとも不毛なジャンルとして家の広告はある。人間がもっとも消費の対象にしたいものであるにもかかわらず、である。それは、広告出稿量が少ないだとか、家があまり広告で売れないということを意味しない。むしろ逆で、家を買うときに広告はコカコーラやパソコンなどとは比較にならないくらい真剣に見られるだろう。今回の広告も、多分に漏れない。
今回のへーベルハウスの広告は、石川英嗣という若いコピーライターが10年以上にわたって続けている広告シリーズの一本である。そしてこのジャンルの10年で、もっともそのブランド名を広告によって有名にしたのも、へーベルハウスだ。たとえば家という商品で、あなたの記憶に残っている名前は他にあるだろうか。広告屋の筆者ですら他には幼少の頃繰り返し見せられ刷り込まれたパナホームぐらいしか出てこない。
ところでこの広告は、物語の形式を取っている。ミステリーといってもいい。キャッチコピーは「3階の娘の部屋は、会社より遠い。」。入りにくい対象として、娘の部屋と会社が併置されているわけで、サラリーマンの父に対して、かなり悲しい現実が突きつけられている。しかも、それでも働いて家族のために家を買いなさいと、この広告は言うのだ。メインビジュアルは階段を下りながらメールをチェックしている女子中学生であり、紙面上半分中央からやや右にずれた位置にレイアウトすることで、そこにネガティブなイメージを与えている。そして、ここで問題にされているテーマは親と娘とのディスコミュニケーションなのである。そんな大きな問題を、へーベルハウスはいかに解決するのか。
キャッチコピーに続く本文の前半では、家に帰ってもすぐに自分の部屋に閉じこもってしまう娘を持つ家族の様子が、フィクションとして描かれている。そして後半の解決部に向かう手前の受けコピー(広告コピーは大概、キャッチコピーと受けコピーという2段階で構成されている)では、「3層生活は家族が孤立しやすい。だからへーベルハウスは平屋感覚の3階建てを提案します」と書かれている。なんと、これが答えである。つまり家族の孤立の問題はここでは従来の3階建ての工法の問題にスライドしているのだ。
「吹き抜けや、間仕切りの少ないオープンな2階リビング、スライドスクリーンで空間を孤立化させない子供部屋」といった内容が「平屋感覚」だという飛躍はいかにも広告的だが、もしこういった商品が思惑通りの意味で売れるとすれば、何ともむなしい。しかし逆を言えば、都会の狭小地にある3階建てにすら、小松左京の「くだんのはは」に登場するような日本的闇の間が存在するということでもある。そして最初に述べたように、それは広告ジャンルの陥没地帯としての「家」広告の位置そのものでもあるだろう。
すぐれた広告は読み飛ばされなければならない。真剣な眼差しの対象になったとたん、それは本来の輝きを失ってしまう。そうした広告の悲哀を家広告はあぶりだす。家広告は海外でも注目されるべき作品を欠いていて、それは世界的な真実かもしれない。そしてもう一つ、商品広告は原則的に、商品写真で広告するべきものなのだが、日本の家広告はそれができていない。デザインが魅力的でないという意味だけではない。クルマのフォルムを選ぶときのように、家のフォルムを選ぶことができないわたしたちの小心と、都市景観の貧しさが無意識の足かせになって、それをさせないのである。しかも最悪なことに、商品写真の不在という広告景観の貧しささえも、わたしたちの心の中で見事に隠蔽されているのだ。