第25回 「剰」
松下電器/2001年9月22日 朝日新聞夕刊4面
陽光をさして、世界は過剰でできているといったのはバタイユだったか。では、広告はどうだろう。
今回取り上げるのは、「ナショナルのあかり」である。洞窟内の鳳凰の壁画が照らし出され、それがメインビジュアルになっている。キャッチコピーは、「千三百年の闇を消したあかり。」。奈良県明日香村のキトラ古墳から発見された壁画を最初に照らし出したのが、発熱量が少なく明るい、ナショナルの照明器具であったという広告である。なるほど、と思うだろうか。あるいは、良くできたいい広告だと感心する人もいるだろう。しかし、この連載の読者なら少し訝しげるかもしれない。果たして広告主は、洞窟の中で調査隊が使用した照明器具の種類をどうやって知ったのだろう?
1920年代、松下電器の広告は照明器具を宣伝することでスタートした。ラジオより、洗濯機より、まず灯り。すべての家電品の広告はまず、光あれ、ではじまったのだ。戦後、「明るいナショナル」(56)というコピーが松下のブランドを確立したように、照明器具は松下電器のアイデンティティそのものだと言っていい。その理念は灯りがもはや消費者の欲望とはまったく無縁の商品となってしまった今も脈々と息づいているのである。この広告は損得を越えたところで、そうした松下電器のポリシーやプライドを賭けて放たれているのだ。その重みに違わず、「ナショナルのあかり」シリーズは不定期ながら、良質な作品を世に送り続けてきた。なかでも印象的だったのは、阪神大震災のあと、ビルの灯りで「ファイト」の文字を描いた写真を使った一本だ。灯りがつくる感動のドキュメンタリー。それが「ナショナルのあかり」のお家芸なのである。
このような、商品を売る以外の製作意図を持った広告を松下電器は一年のある時期に決まってつくる。この春まで本社が大阪にあったので、関西の主な広告制作会社はこぞってそれに関わるのが恒例となっていた。そこでまず行われるのは、ニュースの洗い出しだという。インターネットはもちろん、全国各地の地方記事を隅々まで調べ尽くす。関係者の総数は数百にのぼる。制作者側も金銭を超えた努力を惜しまないのだろう。
そうしてできた一本としてこの広告をあらためて見る。すると、どうしてもぬぐい去れないある印象が残る。それは、一言でいうと過剰なのだ。もちろんそれは広告というものの宿命かもしれないが、たとえば多田琢(ボス)に代表される現代の広告と比して、これはあまりにも意味が強い。闇を照らすと書かずに、「闇を消した」とひねってしまうコピーのねちっこさとともに、その厚ぼったさは怨念のような感じすら浮かび上がらせる。それが、照明器具の広告という小さな光であるだけに、夕刊紙にこの洞窟の広告を発見した時、言葉にしつくせない倒錯した価値を見いださずにはいられなかったのだ。