第17回 「測」
阪急百貨店/2001年7月27日(金)朝日新聞夕刊4面(関西地区のみ)
第1回でリクルートを取り上げたとき、そのデザインが秋山晶のキューピーを意識していると書いた。ところが最近知ったのだが、このリクルートのシリーズのコピーを書いていたのは当の秋山本人であったのだ。なんというか、広告が制作者の身勝手でつくられているようで、やはり企業にはアイデンティティなんてないのだなあとつくづく思った。しかし存外確信犯で、リクルートがキューピーのようにとオーダーしてつくった広告であったかもしれず、いずれにしてもつまらない話である。この連載は基本的に誰がつくった等の裏をとらずに書いている。だからあとから制作者名を知って驚くことになる場合もあるのだが、映画や小説などもいっさい誰がつくったかを語らずに発表すれば、ずいぶん批評のスタンスも変わるだろうにと思ったりもする。不安も大きいが、勇気がいる分書く楽しみも広がるかもしれない。
今回は大阪うめだの阪急百貨店が改装するという広告である。全面に後ろ姿の女性の写真。その女性の隣には、「いつまでもきれいでいたい」「ナチュラルな庭が好き」といった項目が羅列されていて、横にチェックシートのような四角いマスがそれぞれについている。そしてもっとも大きな活字で、「そんな女性から愛されたくて。9月5日(水)、うめだの阪急は変わります。」と書かれている。「そんな女性」がいまの時代の好感を一身に受けたイデアルな女性像であることはいうまでもない。そんな女性が訪れるセンスのいい百貨店になるということ、あるいはそんな女性に、新しい阪急でなら変わることができるのだというイメージ付け。しかしながらその項目の詳細を目にしたものは、おそらく当惑を禁じることができないだろう。たとえば「犬をこよなく愛している」や「ラブストーリーがだいすき」、あるいは「いつまでも夢を持ち続けている」女性に愛されたい改装とはどういうものなのか。また「言葉づかいが美しい」、「気取らないから、人が集まってくる」、「人の気持ちがわかる」に自分でチェックを入れる女性は果たして存在するのか。こうしたトレンドあるいは感性のズレはコピーだけにとどまらない。後ろ姿の女性はただ匿名性だけを表明するだけでほとんどなんの関心も受け手に引き起こさないし、アテンションとして右肩に印された筆書きのようなあしらいも、この広告の何とも連関しない不用意なシミになってしまっている。さらに最悪なのは、この広告面全体をくくる罫線の上部中央に「歌劇は宝塚/映画は東宝」というまったく無関係なグループ会社のマークとコピーが載せられていることだろう。ここまでくると、何か広告の意匠をまとったへんてこな偽物のようですらある。
大阪のおよそ中心に位置する百貨店の広告のこうした悲惨な現実は、関西の地方化がたとえば九州以上に進んでいることを実感させる。それは広告主の問題だけではもちろんなく、こうした広告を何となくやり過ごしてしまう消費者風土の問題でもあるのだろう。広告はそこに暮らす共同体の感性をチェックする測りでもあるのだ。