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週刊広告論

第28回 「M」 

JASRAC/2001年11月18日 朝日新聞朝刊24面


 広告は時代を映す鏡だという手垢の付いた言葉がある。コピーライターは特殊な人より普通の人がいいともいわれるが、ほぼ同義であろう。しかし言葉の流通にも関わらず、広告は時代を映す鏡だという実感は、コピーライター以外にはあまり感じることがないローカルなものだと思う。
 今回取り上げるのは日本音楽著作権協会、JASRACの、広告というより公告である。メインビジュアルは野球のボールを握る手。しかしそのボールは縫い目がト音記号になっている。これは、業界用語でビックリビジュアルというつまらない名前が付いたアイデアの類型である。ビックリビジュアルとは、AがBになっている状態(たとえばペンギンのおなかにチャックがついている→防寒着の広告、という感じ)を考え出す労働方法を指していう。ちなみにこの能力と駄洒落を思いつく力さえあれば、少なくとも広告の世界で食べてはいけるだろう。ともかくこれはそんなビックリビジュアルでできていて、ビックリの謎はコピーで補われることになる。
 そこには「メジャーのルールで、「プレイ」しよう。」と書かれてある。これだけでは何のことかわからない。さらに、受けのコピーを読む。「BGMを流しているお店の方々へ。来年4月から、BGMにも著作権の使用料が必要になります。ご協力のほどお願いいたします。」。ここまで読んでもまだわからない。さすがにいらだちつつ本文に目をやる。どうやら国際的な著作権の考え方では、店舗などのBGMにも当然お金がかかるのだが、日本だけがそれをしていなかった。だから日本もその方式にします、という意味らしい。しかし、どうしてこんなに表現が回りくどくなってしまったのだろうか?
 ひとつにはそれは、ターゲットに無条件で金を払えという迷惑な内容をストレートに言い出しにくかったからに違いない。しかし、決まった事実ならダイレクトに内容だけを告げれば良さそうなものである。普通ビックリビジュアルは、不特定多数のターゲットに対し、不意に変な顔を見せて立ち止まらせるために使うものなのだが、この内容なら相手は特定だしそんな必要がない。それどころかこの場合は、ただ迂遠な広告になってしまっている。おかしいのである。
 理由は、おそらくこの「著作権の使用料」というのがNHKの受信料のような曖昧なものだからであろう。受けの「ご協力のほどお願いいたします」というあたりにもそんな気配が漂っている。なんとか納得して前向きに払ってもらおうという慇懃な姿勢がにじみ出た、これは苦心の一策なのではないか。
 それでも、「国際的な」を「メジャー」に置き換え、店で音楽を流すことを野球の「プレー」と掛けられたとき、コピーライターは歓喜しただろう。メジャーのルールでプレーしよう。店で音楽をかけてお金を払う行為を国際基準のビジネスをしているイメージに書き換えられたのだから鼻高々だろう。誰が見ても、良くできているではないか。
 だが、それにしても腹が立つのは、外国がそうだから払え、という理不尽である。これでは何の説明にもなっていない。しかもそれを、メジャーリーグで喩えていることが理屈抜きで嫌だ。メジャーはもちろん今年の旬なのだが、なぜかこれはいただけない。しかし、考えてみる。この広告が野茂がメジャーへ行った当時に打たれていたら、それほどの嫌らしさはなかったかもしれない。もしそうならこのコピーは、出てくるのが遅すぎたということになる。そして、こうした時間感覚が時代を映す鏡の真意なのではないか。
 やれやれ、こんなどうでもよい普通さへの感性が、僕にあと何年残されているのだろうか。
JASRAC