第18回 「夢」
ホンダ/2001年8月1日(水)朝日新聞朝刊5面
醜悪だというのが分かっていながら、まったく他に変化のしようもなく完成してしまう作品というのが他のジャンルにも存在するのだろうか。
今回取り上げるのはホンダの企業広告である。株式の売買単位が一桁下がったので株を買ってくださいという、告知でもある。売買単位が下がってうれしいのは一般の、株が趣味といった人たちなのだろう。そうした人にホンダの株の魅力を語るにはどうしたらいいか、という地点からこの広告はスタートしている。
まず誰もが最初に思いつくのが、ホンダのつくった二足歩行ロボット「アシモ」に登場願うことである。クルマを売る広告ではなく、ホンダの未来に投資してもらおうというのだから、どんなキャラクターよりそれは秀でている。第一歩はそこに足をおろす他はない。
アシモはTVCMで認知されているので、次はアシモがなぜこの広告に登場しているのかを分からせる作業になる。アシモと「ホンダの株を買ってください」をつなぎ合わせる言葉が必要になるだろう。そしてその最善手は「夢」という一語の起用につきる。なぜならロボットと夢ほど相性のいい言葉もそうはないからである。しかもアシモはテクノロジーがもたらすホンダの夢を体現するために生まれたといってもいい、動く広告塔なのだからなおさらだ。だがおそらく客観的には、こうした紋切り型の連想ゲームに身をゆだねた時点でなにかから踏み外しているのだろうが、しかしこれ以上のアイデアがあるとはとうてい思えない。それに、陳腐なモチーフの精度を上げるのが大人の仕事というものだ。ここからが広告制作者の腕の見せ所でもあるのだ。
まず素材を普通に投げ出せば、アシモがいて、「ホンダの〈夢〉がここにあります」とでもいえばもう広告としては成立している。だから今あなたが目にしている広告がそうではないのには、理由があるのだ。
たぶん「夢」というワードの陳腐さにこの広告は自覚的なのである。夢はいくら繰り返しても受け手に決して届かない、死んだ言葉なのだ。ではどうするか。ここで制作者は何が不足しているかに気づく。それは読み手に、アシモが「なぜ」夢なのかが実感できていないからに違いない。その魅力をブリッジすることができれば、アシモと夢がアトム的な物語を介在させずに、受け手の中でより強く結びつくはずだ。それ以外に手はない。では、アシモの魅力とは何か。
アシモの魅力は、何ができる(歩ける、踊れるなど)といった機能ではない。そんなものは大したことではないし、誰の役にも立たないからだ。さらにその外見も取り立てて説明したい細部があるわけでもない。熟考の末、結局アシモがなぜ「夢」であるかは、わからないということに気づくはずだ。そこですぐれたコピーライターは倒錯する。「アシモはなぜわたしたちの夢なのだろう」という言葉がコピーとして成立することにここで気づくのだ。しかしそれだけでは、まだ届かない。何か抽象的な言葉を投げ出すばかりで、受け手の心に引っかからない。まだ考えなければ完成しない。プレゼンに通らない。こうした壁を乗り越えないと、幾晩徹夜しても、ゼロなのだ。考えろ。アシモは、なぜわたしたちの夢なのか?
ここで稲妻が落ちる。アシモが夢なのは、「見あきない」からだ。これがひらめいた時点で、ある一線を越えたクオリティの広告ができあがる。このひらめきのために、コピーライターは何日も机の前にいるのである。こうした瞬間の喜びのために生きているのだとさえ思える至福の瞬間。さあ、あとはこのアイデアを、紙面に落とし込んでいくだけだ。しかし問題はまだ残っている。
最大の問題は、アシモを見あきないものだと、ホンダが言ってしまうのは、自慢以外の何物でもないという点である。しかし誰かに言わせなければならない。そしてこれにもたったひとつだけ、解決策がある。
それはホンダの社長に言わせてしまうことだ。社長というのはすべてを俯瞰するのが仕事だから、あらためてアシモをじっくり見るということは充分あり得るだろう。そしてその瞬間につぶやく台詞だということにすれば、もはやそれは手前味噌ではない。ある種客観性を備えた言葉として、読者に届くはずだ。第一アシモが見あきないのは、多くの人が納得できる事実なのだから。
このようにしてこの広告はできあがる。アシモで企業広告、という必然的な与件から、〈天才的〉なひらめきが介在しているにせよ、おそらくこの広告は最善のみを尽くして一本道で完成された感がある。木の願うとおりに彫ったら美しい彫像ができたというようにだ。
しかし、それでもこれは醜悪な広告だという第一感は消えない。これもまた、予定されていた運命だとでもいうように、その醜さは整形するすべもない。おそらくこの広告が醜いのは、広告というものが根本的に醜いものだからだ。広告をつくるという営みは、その事実をどのように扱うかという一事につきるのかもしれない。誰よりもみにくい顔に生まれたものが、どのようにすれば愛されるかを全能をつかって表現する。つくづく、そうした仕事なのだと思い、ため息をつきながらこの広告を見る。せめてこの広告がでて一ヶ月、ホンダの株価が上がっていればとも思うが、広告で株が上がるなど、そもそも聞いたことがない話なのだと思い直し、またため息をつくのである。