第6回 「擬」
マンダム/ポパイ5月28日号・表4
ウヒャー、ウヒョー、ムヒョー、は今世紀最初の〈いまの言葉〉だ。
日本文化論の紋切り型に、単一民族国家や島国にとにかく還元してしまうというものがある。オタク間での会話におけるコミュニケーションスピードの速さは極端な例だが、内輪ウケ的な文学や芸術を、そうした角度から非難するポーズは茶番として繰り返されてきた。日本の広告も、ある意味でオタク言語に近いものがある。「萌え萌え」が流通することとコピーのそれとはなんの違いもない。しかしそんな狭い空間の中ではあるが、そこでコミュニケートするために言葉を発することは(古い言葉を借りれば)、命がけの跳躍であることには変わりない。広告が共同無意識の産物であり、そこからユング的な未来予知が可能なように事後的に見えるのも、その非連続性があればこそなのだろう。
擬声語、擬態語を一般的に意味するオノマトペは、広告手法の中でもかなり日本的な部類に入るものだ。それが奇声であればあるほど、許容範囲は限定され、有効期限も短い。イケテいるかダサいかが感覚的な要素でしか判断できず、オーディエンスの多様性を超越したところでの共時性へ向けて投げかけられる言語であり、こうした超越性を相対的に強く保証するのが、いわゆる日本的な土壌なのである。
今回は、マンダムの男性化粧品ブランド、ギャツビーの汗の匂いを押さえるスプレーの雑誌広告である。古い鉄板の継がれた壁に西部劇に登場する原野の光景が描かれていて、その前でラテンなオカマっぽくもみえるガンマンスタイルの本木雅弘が、2丁拳銃を両手に高く掲げている。その両脇には件のスプレーが吹き付けられ、本木はカメラ目線で「ヒョオォ!爽快!!」というキャッチコピーそのままの顔をしている。この広告はポパイの読者という、限定ターゲットに向けて作られたものであるが、開かれた潜在性を持っている。とりわけ質の良い広告とはお世辞にも言えないのだが、ヒャ・ヒュ・ヒョのオノマトペがいま強度のある言葉だという認識は共有でき、そのうち決定打がどこかから出てきそうな、強い匂いを発散している。陳腐な虚構の中で過剰な明るさを演じるというアイデアも、決して時代に反した場違いな方向ではない。
それにしても、オノマトペやナンセンス型のコピーは社会的なショックの予兆として現れてきたはずなのだ。日本が本格的にファシズム化する前の1917年、片岡敏郎は「風さささ、浪どどど」(森永ミルクキャラメル)を書き、オイルショック前には「はっぱふみみふ」(パイロット・1969)が、そしてバブル崩壊前には佐藤雅彦の「ジャンジャカジャーン」(JR・1991)や「ちちんブイブイ」(タケダ・1990)が現れた。驚くべき出来事も持たず、ムヒョオォと無意味に叫んだあと、何か特別な事態がわたしたちに待っているとでも、この広告はいうのだろうか?