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週刊広告論

第38回 「褐」 

明治製菓/2002年4月・5月 家庭画報5・6月号


 家庭画報という雑誌が好きだ。それは死と向き合っているからではないかと思う。どちらかというと裕福であろう若くはない女性をターゲットにするこの雑誌の丹念さ、雅さはどこか身繕いをしているような印象を受けるのだ。もうひとつ好きな雑誌に思春期の男の子向けの「Hot Dog Press」というのがあるが、セックスを全体の基調にしたこの雑誌のきまじめな猥雑さは家庭画報とハレとケのような関係で結ばれていると思っている。
 今回取り上げるのは家庭画報に連載されている明治チョコレートの企業広告シリーズである。同じ文法の話をするのでわかりやすいように二つ取り上げる。ひとつめは鉛筆がビジュアルとして選ばれている。明治のロゴが入っていて、歯形がついている。見逃してはいけないのは、その鉛筆がチョコレート色をしているということ。だからといってチョコレートと間違えて鉛筆をかじってしまった、というような話ではない。キャッチフレーズは長い。「仕事のイライラに対処する方法は2つあります。辞表を叩きつけるか、チョコレートを食べるか。」
 もうひとつはやはりチョコレート色の長い階段の絵。それには「山登りをしない人も、チョコレートを携帯しましょう。人生は山登りのようなものですから」と書かれている。ボディは、「『雲行きが怪しくなってきたなぁ』。と上司が言ったのは、天候ではなく仕事の話。その先の困難を乗り越える時に、あなたのバッグにチョコレートが忍ばせてあれば、心強いものです。…困難を乗り越え、頂上で食べるチョコレートの味もまた、格別です。」という調子。そして「チョコレートは、ひとを幸せにする。チョコレートは、明治。」と受けられている。
 教科書があれば間違いなく載っていそうな模範的な広告である。なぜならひとつの記号に複数のメッセージが隠されている広告こそ、良い広告といわれるものだから。見てみよう。鉛筆の場合、それは徹底的なダイコトミー(二項対立)としてつくられている。まずキャッチフレーズに2つの方法が記されている。辞表を叩きつけるか、チョコレートを食べるか。それを象徴的な絵にするには、ビジネス感とチョコ感を一挙に表現できる何かを見つける必要がある。その答えはチョコレート色の鉛筆。さらにそれに歯形をつけることで、「イライラ」とチョコレートすら両立させてしまう。この広告表現を際だたせるためにあえて誤答を作成するとすれば、たとえば泣き出しそうなOLの顔のビジュアルと対比することができるだろう。その顔の写真を受ける形でキャッチフレーズが入れば広告として成立しはするのだが、その違いは文字通り一目瞭然で、こうした違いは、アイデアがあるとかないとかいう語で切り分けられる。そしてその質の差が作り手にとって「できる」と「できない」の残酷な溝を作り出していもする。受けコピーも「チョコレートは、ひとを幸せにする。」と「チョコレートは、明治。」の2文で構成されており、しかもそれがこのシリーズのコンセプトと企業スローガンを二重に顕わしているところがなんとも匠の芸である。
 チョコレート色をした鉛筆や階段をじっと見つめて、それが広告作品として良くできている、プロフェッショナルなものであるにもかかわらず、どこか閉じられた、盆栽の世界のような感じがするのは、これが家庭画報に掲載されていることと無関係ではないだろう。精緻なものを精緻なまま定期的に作り続ける苦しさは、特に家庭画報や特殊な専門誌のようなパイのある程度決まっている雑誌にとって、無間地獄のような感もあるだろう。そうした虚無との戦いはこうした広告でも同様で、こうなるとターゲットが誰と言うより、広告の神様に向けてつくっているような感じではないか。だからこそ、せめてその端正さは無条件で評価されねばならない。