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週刊広告論

第50回 「ジョニーウオーカー」 

2003年 CF(英)


 映画の長さやカット数、あるいは1:1.33といったフレームサイズそのものが研究対象となったのはごく最近のことである。それまでの映画論はもっぱらテーマやメッセージを対象としてきた。ではテレビコマーシャルの世界はどうかというと、それどころかこうした内容や形式のどちらにも議論は触れられたことがなく、マクルーハンのように遠眼鏡すぎてほとんどめくら撃ちのようなメディア論や「メディアセックス」のような細部を見過ぎて微分妄想の世界に入っていくような珍品が散発的に現れる程度であった。テレビコマーシャルに関する議論は、未だ黎明期だということなのだろうか? あるいは議論に値しないジャンルに過ぎないということか。
 今回取り上げるのはイギリスのテレビコマーシャル。「ジョニーウオーカー」というウイスキーの60秒のCFである。この作品は今年のカンヌ広告賞で金賞を取っている(だからwebで見ることができる。ここから)。ちなみにこの広告賞に日本のコマーシャルは毎年ちっとも引っかからないのだが、その理由は文化の違いでも言語の違いでもなく、長さの違いから生まれている。日本のコマーシャルは15秒を基本単位としている。もちろん30秒や60秒のCFもあるにはあるが、そのほとんどが15秒でできている。これは家をとにかく詰めて建ててできた日本の街と同じようなもので、同じ時間にたくさんのCFを流すことができれば、たくさん広告収入が入るという発想からそうなっている。この15秒単位というルールを採っている国は僕の知る限り他にひとつもない。ほとんどの国のCFが30秒をベースとしていて、60秒のCFすら日常的である。もし日本のCFがそんな風になれば、その質は決定的に変化するだろう。8割を占める低品質の広告が一本60秒も流された日にはそれを放映した企業はほとんど即死に近いマイナスイメージを消費者にあたえるだろうから。しかしこの15秒という特殊な世界は時に俳句のような効果を持つことがあったりして、いかにもオタクな共同体萌えするCFを生んだり、批評もタレントの微妙な演技や間を時代と結びつけるナンシー関のような才能を生んだりもするのだからあなどれない。このあたりについては次回以降に譲るとして、ところで、ジョニーウオーカーである。
 海洋映像でよく見かける魚群のうごめく無数の影。この魚の一匹いっぴきが人間であるという衝撃的なスタートから、それがトビウオのように跳ねる映像へとすすみ、最後はそれが人間へと進化(?)し、陸に上がるという不思議な展開。そして take the first step というフレーズからジョニーウオーカーへとつながるという意外なラストと息もつかせない。
 CGによる現代の映像技術がなければあり得なかった一本だが、アイデアで特筆すべきは猿から人間ではなく、魚から人間という進化のステップを発見したところにある。陸上生物の進化過程をすべて省略するところが広告的なのだ。さらに魚に化けた人間がそのまま人間になるというトリックも進化=変化であるという常識を裏切っている。しかし日本の広告観ではこのCFはボツであろう。どういうことか。
 たとえば同じジョニーウオーカーでも北野武がドブをじゃぶじゃぶ歩くCFと比べてみるとわかる。たけしの歩く姿はそのままジョニーウオーカーのシンボルマークと重なるし、しかもそのお酒のターゲットを体現している。さらにいえばたけしの生き方そのものがウイスキーのアイデンティティを代弁するという作りになっている。これぞ広告というものだろう。それに比べると魚人間とジョニーウオーカーはあまりにも遠い。ナンセンスに過ぎるのだ。そしてナンセンスという意味でも、たとえばKDDIの「着うた」を聞いて群がる鳥たちのように、その飛躍は商品特性へオチてこそプロの芸である。こうしたCFに比べると、イギリスのジョニーウオーカーは学生コンペレベルといえなくもない。しかしながら、おそらくマジョリティである世界のCFコードはこのコマーシャルを是とするだろう。こうしたズレは購買する欲望そのものに文化性があるという意味か、あるいはまったく別のコンテクストが働いているのだろうか……。ブランドイメージの向上といったもっともらしい広告用語の裏で、広告そのものはその根本的な価値共有すらできないで、未開のままでいる。
ジョニーウオーカージョニーウオーカージョニーウオーカージョニーウオーカー