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  週 刊 広 告 論  

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週刊広告論

第55回 「公共広告機構」 

CF


 広告がもっとも苦手とするのは、普通にメッセージを伝えることだ。昔、小泉今日子が『ベンザエースを買ってください。』(85)と言って以降、この「伝わらなさ」そのものが広告表現の前提になっているほどだ。よく「○×しよう」とか「さあ、○×」みたいなスローガンが広告コピーにはあるけど、作り手は受け手が、じゃあそうしましょうかと動くとは100%思っていない。無論そうした前提でコピーを書いているのである。だから企業のブランド広告とかだと意外に制作者は四苦八苦する。クライアントは自分たちが社会や消費者に対していいことをしているわけだから、それをそのまま伝えれば広告になると思ってしまいがちで、その齟齬が受難を生むのだ。児島令子だったか、鉄道会社の広告で『本当の努力が言いたい。』というのがあったが、かくも広告は普通にメッセージを届けることができない媒体なのである。
 公共広告機構のCMがいつも高品質であるにもかかわらず胡散臭く感じられてしまうのは、かれらがこうした広告メディアの特性に無自覚だからではないか。ちなみにこの組織は完全ボランティアでできていて、わたしたちの税金とかは投入されていない。広告制作者は無償で製作し、マスコミ媒体サイドも出稿に当たって広告料金を取ったりはしない。それらは正規の料金だと年間300億円を超える額だという。それで世の中をよくするためのメッセージを誰が得するでもなく発信しているわけで、これぞまさに善意の行為というべきものだろう。そして「善いこと」ほど伝わらないのが広告というものである。それはデメリットどころか広告の唯一の美徳だと思う。
 今回取り上げる最新作、「親子」篇のテーマは「抱きしめる、という会話。」だ。「自分の子供なのに愛し方がわからない。まず、子供を抱きしめてあげて下さい。公共広告機構です。」というのがメッセージ。浅薄だと思うなら「子どもの頃に抱きしめられた記憶は、ひとのこころの、奥のほうの、大切な場所にずっと残っていく。 そうして、その記憶は、優しさや思いやりの大切さを教えてくれたり、ひとりぼっちじゃないんだって思わせてくれたり、そこから先は行っちゃいけないよって止めてくれたり、死んじゃいたいくらい切ないときに支えてくれたりする。 子どもをもっと抱きしめてあげてください。ちっちゃなこころは、いつも手をのばしています。」という新聞広告版のボディコピーを読めば伝わるだろうか。CM版ではそうしたメッセージが向き合う親子というシンプルな画面にこめられている。最後、公文顔の子どもがにこりともせず抱きしめられる図がその企図を静かに伝えるだろう。幼児虐待といったトレンドともマッチしていて、まさにいまこの世に伝えるべき公共広告だという感じがする。しかし何度観てもぬぐうことのできない、このもどかしさはなんだろう。
 映画の世界ではよく、見つめ合う二人の視線を同時にカメラに収めることは技術的に不可能だといわれる。そこで映画はカットの切り返しという編集技法を使うことになる。(その虚偽を実践的に暴いたのが小津安二郎だといわれている。)このCMの伝わらなさの一因は、見つめ合う二人の解り合えていない関係を側面からのショットの積み重ねで技術的に表現し、のちに抱きしめあう親子の切り返しによってその冷たさをぬくもりに変えようというコンテの精密さが、裏目に出ているからではないか。つまり、解り合えない-解り合えるという関係の切り返しをカットバックという虚偽に託してしまったことが原因ではないかと思う。さらに、そもそも真実が決して伝わらない広告というメディアでそれをしたことが、ディスコミュニケーションを決定づけているのだ。そして繰り返すが、こうしたメッセージの伝わらなさ加減こそが、広告の美徳というものである