
第39回 「護」
GEエジソン生命/2002年4月25日 朝日新聞夕刊終面
現代広告の黄金時代である80年代の中でも、特に出色だった1983年、何を思ったかその年の広告年鑑は、広告賞受賞作品を褒め称えてもらおうと、各作品ごとに著名人にコメントをもらうという暴挙に出た。その結果、サントリーローヤルのランボーが浅田彰に「よくできているだけ」と切り捨てられるなど、優秀作品たちはさんざんな目にあった。なかでも印象的だったのは、仲畑貴志が書いたベンザエースのコピーである「カゼは、社会の迷惑です。」に対する反応で、有名コピーライターたちは「ほんとうのことって、人を立ち止まらせ、考えさせ、うなづかせるんですね」といった絶賛の言辞をあびせるのだが、たまたま一著名人としてこの広告のコメントに当たってしまった景山民夫は、『例えば、馬鹿は、社会の迷惑です。とかでも立派に成立してしまう。』ため、こんな当たり前の文をどう批評すればいいのだとあきれ果ててしまうのである。
それから約20年がたったが、同じ企画をもし繰り返したとしても、状況はまったく変わってはいないだろう。広告の言葉は関係者以外にとって、およそ語る価値がないものなのだと思える。広告はそういう、語るに値しない価値のなかで繰り広げられる特殊言語の世界なのではないか。
だがもしそうだとしても、そのことは決して広告をおとしめるものではない。たとえば将棋などの棋譜も同様であろう。つまりそれを個別に評論することは不可能だが、価値がないという人はいないはずだ。広告もそういうものなのではないかと思う。
今回取り上げるのは、介護保険に入りましょうという広告である。交番の前なんかにある看板がメインビジュアルだが、よく見ると内容が違う。人口10万人あたりに発生する自動車事故や火事の数などが書かれていて、「介護 1050人」の文字が赤く浮き立っている。人はそこで納得するだろう。自動車事故や火事に遭うよりも、介護状態になる人の方が多い。ならば、自動車保険や火災保険以上に介護保険は重要ではないかと気づくわけである。
説得力のある、よくできた広告だと思うかもしれない。あるいは広告に詳しい人なら、「AがBに化けている」型の広告の中でもっとも低級とされる、文字を書くメディア(黒板や看板など)をパロディにする手法を採用しているため、突出した出来ではないと思うかもしれない。いずれにしろ問題は、それ以上にこの広告について語る言葉がでてこないことである。それは、これがその程度の、語るに値しない広告だからか。あるいは、やはり広告というものが、語りを阻害する力を持っているからだろうか。
だが、あらためて考えればそうでないことに気づくはずだ。景山が批評に窮したのは、なぜ「カゼは、社会の迷惑です。」が広告コピーとして成立しているかという視点をまったくもたなかったからである。言い換えれば、広告というものがコンテクストの産物であるという事実にまったく無頓着だったのである。しかも景山の批評方法は、ただただ感じたことだけを語るという、素朴印象批評のスタイルで、たぶんそれでは文学を斬ることでさえ難しそうな代物なのだ。だからきっとこの広告も、写真のトーンを語ったり、パロディ広告の比較の中で語るなど、いくらでも批評することが可能であるはずだ。言葉を失うのは、ただ研鑽が足りないからではないか。
だから僕が今、この広告を前にして絶句しているのは何かの間違いだろう。
