Isidora’s Page
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週刊広告論

第53回 「大日本除蟲菊」 

2003年~ CF


 だいたいのものは見ようとすると見えない。たとえばこのページは広告について何かいうために書かれているが、何か語ろうと思って広告を見ても、それは見えない。見えないからこそわたしはそこから潜在的なメッセージをくみ取ったり、広告史のコンテクストにそれを当てはめたりして何か不可視なものを視界に上らせようとする。だがそもそもそうした迂回作業こそが当の広告が見えていないことを白状しているようなものだ。このHPをつくっている石堂さんが、自分の子どもが本を読んでも感想を言わないということを書かれていたが、それは至極まっとうな態度なのだと思う。客観的な立場で見ようとすればするほど、それは見えなくなるばかりだからだ。それにしてもCMは本当に語るに足るほどの価値のあるものなのだろうか?
 最近面白いCMはあるかと聞かれれば、大日本除蟲菊(キンチョー)と答える。近作では「おまえの話はつまらん」が有名だが、キンチョーの製作姿勢は一貫していて、つまりそれは、CMの裏側からCMをつくる、という態度である。今回取り上げるのはなかでもその思想が顕著に表れた「クリーンフロー花の香り・夫婦編」だ。リビングで夫婦がこの商品について語り合う。「花を買ったの?」「芳香剤よ」「ホントに?」「ホントよ」「本物の花みたい」というのが会話のすべてだが、これを夫婦はフランス語でやりとりする。なぜフランス語なのかはCMの物語からは理解できない。が、視聴者には100%その理由がわかるようにできている。つまり、まるで本物の花みたいな優雅な芳香剤のCMにフランス語はうってつけだ、という商品コンセプト上の理由をいまの受け手は完全に理解できる、という前提でこのCMはできている。そして驚くのはこのCMにおけるアイデアのポイントである。制作者はそれを会話の内容ではなく彼らの会話における仏語発声の汚らしさにおいたのだ。「フランス語はそもそも汚い」という発見がCMのベースになっている。そこがすごい。それはありがちな〈日本人の下手な英語の発音〉といった紋切り型とは完全に違う。むしろ逆にフランス語の発音(特にRの)を「ちゃんと」発音しようとして起こる、言語そのものが持つ不細工さなのだ。しかも視聴者に届くときにはこの発音の異様さの根拠はどうでもよくなっていて、そんなことにはお構いなくだれもが瞬時にこのCMの面白さを理解するだろう。そういう風にできているのもすごい。そして、ここでの発音の滑稽さの意味もまた、登場人物のふたりとは関係ないCMの〈外〉の地点で理解される。つまり、「本物の花に見えて実は芳香剤」という間抜けな商品特性が、「おしゃれなフランス語の会話に見えてとても不細工」というCM表現と一体化していることがその根拠であることに視聴者は気づくのである。最後のナレーション「フランスから、ウソ、キンチョーから」はその気づきをフォローアップしているわけだが、それにしてもこの異様な完成度の高さはどうだろう。
 いうまでもないが、このCMのセリフの中身自体は〈笑かし〉でもなんでもない。ローカルなCMならほんとうにそのまま作ってしまいそうな普通のCMの会話でできている。制作者たちはつまり、普通のCMの会話そのものがCMのアイデアベースになり得るという、未踏の場所に立っている。「つまらん」がこれまでのCMの都合のいい言葉を切って落としたのに対して、「クリーンフロー花の香り」は、CMのつまらない言葉をそのまま完全に再現することで無に帰してしまう。そして商品自体のガジェット性もあいまって、CM=ものを売る機械、という前提をすら虚構化していく。キンチョーのCMがただのパロディーと一線を画するのは、CMの構造や常識そのものを揺さぶろうという腕力の強さだ。たった15秒のCMについて何が語れるものかという日々の諦念を、キンチョーの作品は圧倒的な力であざ笑ってくれる。まったく、悔しい話である。